店に入ると、コーヒーの匂いがした。
静かなジャズが流れている。
窓際の席に向かい合って座る。
メニューを開く文姫の指を、洸太はなんとなく見てしまった。
指輪は、なかった。
――いや、何を確認してるんだ。
自分で自分に呆れる。
文姫が顔を上げる。
「洸太、変わったね」
「どっちの意味」
「ちゃんと働いてそうな顔してる」
「失礼だな」
文姫が笑う。
その笑い声を聞いた瞬間、洸太は思う。
ああ、たぶん俺、ちゃんと忘れられてなかったんだな、と。
高校の頃、二人はずっと一緒だった。
朝も、昼も、帰り道も。
付き合ってないのがおかしいと周りに言われるくらい、いつも隣にいた。
洸太は自然と文姫を好きになった。
でも文姫は、告白されるたび困ったように笑った。
「嫌いじゃないよ」
その言葉に、何度も期待した。
けれど、そのあとに続く言葉は変わらなかった。
「でも、恋人って感じじゃないんだよね」
長く一緒にいすぎたのかもしれない。
近すぎて、もう友達以上に思えない。
文姫は、そんなふうに言っていた。
洸太は理解したふりをしていた。
でも本当は、ずっと苦しかった。
文姫が他の男と話すだけで、勝手に落ち込んで。
優しくされるたび、期待して。
諦めようとして、また好きになって。
そして、ある日。
本当にくだらないことで喧嘩した。
きっかけなんて、小さかったと思う。
別のクラスの男子にノートを貸したとか、その程度のことだった。
でも洸太は、積もっていたものを抑えきれなかった。
「俺ばっかじゃん」
文姫が、驚いた顔をする。
「……なにが?」
「俺ばっか文姫のこと考えてる」
口にした瞬間、自分でも止まれなかった。
「送って、迎え行って、相談乗って……なのに文姫はさ、俺には何も返さないじゃん」
最低だと思った。
好きでやっていたことだった。
見返りなんて求めたくなかった。
でも、本当は欲しかった。
文姫は少し黙って、それから静かに言った。
「……そう思ってたんだ」
怒ってはいなかった。
ただ、少しだけ傷ついた顔をしていた。
結局、そのまま卒業までまともに話さなかった。
謝るタイミングはいくらでもあったはずなのに、二人とも意地を張った。
――そして今。
十年ぶりに、向かい合ってコーヒーを飲んでいる。
文姫がカップを持ったまま、ふっと笑った。
「なんかさ」
「ん?」
「十年会ってなかった感じ、しないね」
洸太は、その言葉に返事ができなかった。
喫茶店の窓を、雨粒がゆっくり流れていく。
洸太はカップに視線を落としたまま、小さく息を吐く。
そして――
「……ごめん」
気づけば、口から零れていた。
文姫が目を丸くする。
「え?」
洸太は苦笑いみたいな顔になる。
「いや……なんか今さらだけど」
言葉を探すように視線を逸らす。
「あの時、俺めんどくさかったなって」
文姫は何も言わず、洸太を見ていた。
高校の頃の自分を思い返すだけで、少し苦しくなる。
好きだった。
好きすぎた。
だから、勝手に期待して、勝手に苦しくなって。
文姫が応えてくれないことに、拗ねていた。
「……あんな言い方するつもりじゃなかったんだけど」
洸太が小さく笑う。
「まあ、したんだけど」
文姫はしばらく黙って、それからふっと力を抜くように笑った。
「ほんと今さらだね」
その声は、責めるようなものじゃなかった。
むしろ、どこか懐かしむみたいな響きだった。
文姫はコーヒーカップを両手で持ちながら、窓の外を見る。
「高校の時、あんなに会話しなくなってさ」
ぽつりと呟く。
「最後、ずっと気まずい雰囲気のまま終わったのに」
そこで一度、洸太を見る。
「十年ってすごいね」
文姫は少し笑った。
「こうしてまた、洸太と普通に話せてる」
その笑顔を見た瞬間、洸太は胸の奥が静かに痛くなる。
十年前、欲しかったものは、たぶんこういう時間だった。
静かなジャズが流れている。
窓際の席に向かい合って座る。
メニューを開く文姫の指を、洸太はなんとなく見てしまった。
指輪は、なかった。
――いや、何を確認してるんだ。
自分で自分に呆れる。
文姫が顔を上げる。
「洸太、変わったね」
「どっちの意味」
「ちゃんと働いてそうな顔してる」
「失礼だな」
文姫が笑う。
その笑い声を聞いた瞬間、洸太は思う。
ああ、たぶん俺、ちゃんと忘れられてなかったんだな、と。
高校の頃、二人はずっと一緒だった。
朝も、昼も、帰り道も。
付き合ってないのがおかしいと周りに言われるくらい、いつも隣にいた。
洸太は自然と文姫を好きになった。
でも文姫は、告白されるたび困ったように笑った。
「嫌いじゃないよ」
その言葉に、何度も期待した。
けれど、そのあとに続く言葉は変わらなかった。
「でも、恋人って感じじゃないんだよね」
長く一緒にいすぎたのかもしれない。
近すぎて、もう友達以上に思えない。
文姫は、そんなふうに言っていた。
洸太は理解したふりをしていた。
でも本当は、ずっと苦しかった。
文姫が他の男と話すだけで、勝手に落ち込んで。
優しくされるたび、期待して。
諦めようとして、また好きになって。
そして、ある日。
本当にくだらないことで喧嘩した。
きっかけなんて、小さかったと思う。
別のクラスの男子にノートを貸したとか、その程度のことだった。
でも洸太は、積もっていたものを抑えきれなかった。
「俺ばっかじゃん」
文姫が、驚いた顔をする。
「……なにが?」
「俺ばっか文姫のこと考えてる」
口にした瞬間、自分でも止まれなかった。
「送って、迎え行って、相談乗って……なのに文姫はさ、俺には何も返さないじゃん」
最低だと思った。
好きでやっていたことだった。
見返りなんて求めたくなかった。
でも、本当は欲しかった。
文姫は少し黙って、それから静かに言った。
「……そう思ってたんだ」
怒ってはいなかった。
ただ、少しだけ傷ついた顔をしていた。
結局、そのまま卒業までまともに話さなかった。
謝るタイミングはいくらでもあったはずなのに、二人とも意地を張った。
――そして今。
十年ぶりに、向かい合ってコーヒーを飲んでいる。
文姫がカップを持ったまま、ふっと笑った。
「なんかさ」
「ん?」
「十年会ってなかった感じ、しないね」
洸太は、その言葉に返事ができなかった。
喫茶店の窓を、雨粒がゆっくり流れていく。
洸太はカップに視線を落としたまま、小さく息を吐く。
そして――
「……ごめん」
気づけば、口から零れていた。
文姫が目を丸くする。
「え?」
洸太は苦笑いみたいな顔になる。
「いや……なんか今さらだけど」
言葉を探すように視線を逸らす。
「あの時、俺めんどくさかったなって」
文姫は何も言わず、洸太を見ていた。
高校の頃の自分を思い返すだけで、少し苦しくなる。
好きだった。
好きすぎた。
だから、勝手に期待して、勝手に苦しくなって。
文姫が応えてくれないことに、拗ねていた。
「……あんな言い方するつもりじゃなかったんだけど」
洸太が小さく笑う。
「まあ、したんだけど」
文姫はしばらく黙って、それからふっと力を抜くように笑った。
「ほんと今さらだね」
その声は、責めるようなものじゃなかった。
むしろ、どこか懐かしむみたいな響きだった。
文姫はコーヒーカップを両手で持ちながら、窓の外を見る。
「高校の時、あんなに会話しなくなってさ」
ぽつりと呟く。
「最後、ずっと気まずい雰囲気のまま終わったのに」
そこで一度、洸太を見る。
「十年ってすごいね」
文姫は少し笑った。
「こうしてまた、洸太と普通に話せてる」
その笑顔を見た瞬間、洸太は胸の奥が静かに痛くなる。
十年前、欲しかったものは、たぶんこういう時間だった。
