「白髪染めはするべきなのか?」
昼休みの静かな法律事務所で、その一言はあまりにも唐突だった。
キーボードを叩く音。
遠くで鳴る電話。
コーヒーの香り。
いつもと変わらない午後だったはずなのに、春山咲(はるやまさき)の時間だけがピタリと止まる。
「……はい?」
間の抜けた声が漏れた。
向かいのデスクに座る瀬川秀治(せがわしゅうじ)は、そんな咲の動揺など気にも留めない様子で、パソコンに視線を落としたまま、
「最近急に増えた気がするんだ。白髪って老けて見えるだろ?」
そう言って無造作に髪を掻き上げる。
柔らかなストレートヘアには繊細なハイライトを入れたような絶妙な白髪が混じる。黒髪とシルバーグレーのコントラストは老けて見えるどころか色気を増幅させている。
年齢を重ねたからこそ似合う、いや、瀬川だから様になっていると言っていい。
(——その白髪が好きなのに。染めないで欲しい)
「……急にどうしたんですか?」
咲は必死に平静を装いながら問い返した。瀬川はさらりと答える。
「婚活でも始めようかと思ってな」
「こっ、婚活⁉︎」
その瞬間咲の手からスマホが滑り落ち、ゴトンと乾いた音がフロアに響いた。
瀬川は顔を顰める。
「そんなに驚くことか?」
驚くに決まっている。
婚活?
再婚?
知らない女性が彼の隣で笑う姿が、頭に浮かんだ。
同時に胸の奥がズキンと痛む。
「そりゃ、独身貴族を謳歌している先生がそんなこと言うなんて。みんな驚くと思いますよ」
四十六歳。
敏腕弁護士。
バツイチ。
独身。
群衆の中にいても目を引くであろう端正な顔立ち。抜群のスタイルにファッションセンス。
けれど彼の魅力は、これだけではない。
依頼人からの信頼。
感情を簡単には見せない冷静さ。
年齢を重ねた男にしかない落ち着き。
目尻に刻まれたシワと黒髪に混じる白髪、ふとした瞬間に滲む色気などなど。
「そうか?」
「はい、そうです。でもまぁ、髪なんて染めなくても今のままで十分素敵だと思いますけど?」
瀬川の眉がわずかに上がる。
「へぇ」
彼は椅子の背にもたれに体を預けてゆっくりと咲を見た。
獲物を追い詰めるみたいな、獣の視線。
咲の鼓動が逸る。
法廷の場でしか見せない顔だと思っていたから、まさか自分に向けられるとは夢にも思わなかった。
「具体的には?」
「……へ?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「どこがどういう風に素敵なんだ? 俺に分かるように説明してくれないか」
瀬川の魅力と言われて真っ先に思い浮かぶのは、
「……先生は仕事熱心で」
「うん」
「大人の余裕があって」
「それから?」
それから……、
ネクタイを緩める仕草。
男らしい低い声。
仕事中の真剣な眼差し。
疲れた顔さえ素敵で、コッソリ眺めては密かにときめいていていますーーなんて言えるわけがない。
言ったら毎日観察していることがバレてしまうのかだら。
「質問に答えなさい、春山」
低い声が命令する。ゾクリと胸が震えた。
「あ、えと、ええと……」
咲は焦り、つい本音をこぼす。
「……大人の色気があります」
瀬川の口元がわずかに緩んだようにみえた。
「色気ねぇ」
次の瞬間静かに立ち上がると靴音を響かせて近づいてくる。
「春山」
低く名前を呼ばれ咲は肩を竦ませる。
「はいっ」
「それは俺を男として見てるということか?」
至近距離で見つめられ息が止まる。
少し伏せられた瞳。
長い睫毛。
整いすぎた美しい顔。
額にかかるシルバーグレーの髪。
男として意識するなという方が無理だ。
だが、上司に向かってそんなことを言えるはずがない。
「……違います。先生のことはただの同僚としかみていません」
かろうじてそう返すと、瀬川は小さく笑う。
「嘘が下手だな」
「嘘じゃありません!」
咲はキッパリと言った。すると瀬川の表情が微かに曇る。
「今週末、婚活パーティーに誘われている」
「そうですか」
「引き止めるなら今だぞ?」
なぜそんなことを問うのか、咲に引き留める権利などあるはずもない。
「先生が幸せになるなら、応援します」
その言葉を口にした瞬間、咲の胸奥で何かが壊れる音がした。


