あなたの香りは溺愛の香り



「――それでですね。部長も煙草吸ってて……確か……赤ラークのロングで……奥さんに禁煙して! って言われてるみたいなんですけど、でも部長の奥さん、部長が煙草吸ってるの見るの好きみたいで……」

 その週の土曜日のこと。
 恋人らしくデートを重ねて、ホテルで気だるい時間を過ごしながら、遥は意気揚々と話していた。

「赤ラークのロング……矢部さん、煙草の銘柄わかるの?」
「えっ……全然……? ただ、部長がそう言ってただけで……」
「……ふ〜ん……?」

 いつも機嫌のよさそうな荻原が、珍しく声を低くした。

 ――え、私、なにか変なこと言ったかな。例の部長は奥さん一筋すぎて惚気まくりで超有名。浮気の線を疑われてることはないはず。煙草の話したら盛り上がると思ったんだけどなぁ……。

 遥がもんもんと考え込んでいるうちに、荻原がどこからか煙草を取ってきた。
 今日はスーツじゃなくて私服なのに。動きを目で追っていると、ほら、と荻原が口を開いた。

「俺のはマルボロのソフト。でね。ものにもよるんだけど、煙草ってこうやって出すの」

 言いながら、荻原が煙草の箱の下を数回指で弾く。煙草が一本出てきた。荻原は迷うことなく口に咥えて、すぐにライターで火をつけた。

 紙の燃える匂い。それに、煙草独特の煙の匂いも。すう、と荻原が少し息を吸うと、燃え口が鮮やかな赤になる。ちり、と燃える音がして、荻原が煙草から口を離した。
 煙が舞う。風のない室内。二人のあいだで緩やかに滞留して、やがて消えた。

 一連の様子を、遥は夢中になって見つめていた。
 無骨な指が煙草を挟むのも。物憂げに目を伏せて、煙草を咥える姿も。嗅いだことのない甘くて苦い香りも。全部、見たことのない荻原の姿で、遥の胸は早鐘を打っていた。

 しばらくそうして吸ったところで、人差し指と中指で煙草を挟んだ荻原が、気だるげに遥のほうを向いた。

「どう?」
「……どう?」
「ドキドキした?」
「どっ……、……ドキドキ……しました……」
「ふふ、よかった」

 荻原の瞳が緩やかな弧を描く。
 なおも燃える煙草の吸い口に口をつけて、それから一度大きく息を吐いた。

「……本当はね。煙草吸うこと、内緒にしとくつもりだったんだ」
「……そうなんですか? どうして……」
「嫌がる人も多いからね。服に臭いがつくとかで……煙草のせいで矢部さんにフラれるとか絶対嫌だったし。でも仕事の付き合いもあるから禁煙はできないし、だから秘密にしとこう、って。俺、別にヘビースモーカーでもないからね」

 備え付けの灰皿で火を消して、荻原はすぐに2本目を吸い出した。

「……匂い、…………確かに……部長からも煙草っぽい匂いがしてて……」
「ほらまた」
「ほ……?」
「矢部さん気づいてないでしょ。俺ね、矢部さんが部長の話することにヤキモチ妬いてるの」

 えっ、と言いかけた遥の唇は、荻原の唇で塞がれた。
 燃える煙草を吸っていたはずの唇は、けれど不自然に冷たかった。それから、煙草の味がする。
 上手く言えないけれど、煙草をパッケージから出した時の、あの独特の匂いと味がしたのだ。

「……荻原さんでもヤキモチなんて妬くんですか?」

 重ねるだけのキスをして、遥はどきまぎしながら聞く。ついさっきこれ以上に凄いことをしたばかりなのに、今日一番、胸がドキドキしていた。

「……矢部さんは俺たちが付き合い出したときのこと、覚えてる?」
「……覚えてますよ、もちろん……」
「ならどっちから告白したかは?」
「……それは確か……荻原さんで……」
「なんだ、ちゃんと覚えてるんじゃん」

 鼻先の擦れ合いそうな距離で、じっと見つめ合う。

「矢部さんが思ってるより、俺は、矢部さんのことが好きってだけだよ」

 もう一度だけキスされて、荻原がまた煙草を咥えた。
 家族に喫煙者のいない遥は知らなかった。存外、煙草は早く燃えること。独特の匂いがすること。――自分の彼氏が煙草を吸う姿が、すごくかっこいいことを。

「矢部さんが平気なら、今度から矢部さんの前でも吸うようにしようかな」
「それは……ご自由に、というか……」

 遥はやっぱり荻原から目が離せない。
 どこかふわふわした気持ちのまま見つめていると、やっぱり、と荻原が言う。

「矢部さんに俺の煙草の匂い、覚えてもらわなきゃ」
「匂い……? ど、どうしてですか……?」
「俺のはマルボロのソフトだからね。俺の吸ってるやつ以外の煙草の匂いになんてときめかないように、ね」

 ここまで言われれば、さすがの遥も荻原の言葉の裏に気づいてしまう。

「と、ときめいてないですよっ……! 第一、部長は奥さん一筋なんですよ! あと部長おじさんだし!」
「……俺が勝手にヤキモチ妬いてるだけだから。でも……そうだなぁ、」

 2本目を灰皿で消して、荻原が遥の腕を引く。
 そのまま荻原の胸に収まって、遥は、あ、と思う。
 ――苦い香りがする。でも部長のとは全然違う匂いだ。これが荻原さんの匂いなんだ。

「矢部さんに、俺の煙草の匂い、移しちゃうのもいいかもね」

 胸の中に遥を抱き込んで、荻原はどこか楽しげな様子で言葉を連ねる。

「……移しちゃうんですか?」
「そ。さっきも言ったけど、煙草って匂いが移りやすいからね。一緒にいるうちに髪とか服に匂いつくはずだから」

 どうして移すんだろう? 遥の疑問は、遥の耳に寄せられた唇からすぐに返ってきた。

「俺のもの、ってすぐわかるように。それに俺の匂いがすれば、矢部さんだって他の男の煙草なんて気にしてる暇ないでしょ」

 掠れた声で囁かれた――独占欲をむき出しにした言葉に、遥はもう頷くことしかできなかった。