あなたの香りは溺愛の香り



 矢部遥と荻原雅彦。二人は、なんてことない社内恋愛の末に付き合い始めた。
 
 25歳になったばかりの遥と、32歳になる荻原。
 二人が出会うきっかけになったのは部門を超えた大きなプロジェクトだ。
 それなりに大きい会社にいる二人。それまで特に顔を合わせたこともなかった。なんだったらプロジェクトで顔合わせするまで、互いの存在すら知らなかったぐらいだ。
 
 話すようになった理由はなんだっただろう。二人してもう覚えていない。
 けれどきっと、初めは仕事の相談から。それから休憩がてら談笑も交えるうち、なんとなく気が合うな、と思い始めるのにそう時間はかからなかった。

 けれどこれはあくまで仕事。双方、仕事とプライベートは別物だときっぱり割り切り、プロジェクトの一員として見事に仕事を完遂させた。

 そうして打ち上げのあった夜。
 一次会を済ませて、二次会だなんだと騒ぐメンバーをよそに、遥は荻原とともにこっそり抜け出していた。そして荻原は、遥にこう告げたのだ。

『俺、矢部さんのことが好きなんだよね』。

 ――かくして二人のお付き合いは始まった。
 交際は順調そのもの。お互い口にせずとも、結婚も視野に入れている。それが、今の二人の関係だった。







「あれっ、部長も煙草吸うんですね?」

 その日。遥は、自身の上司である部長の机に置かれていた――赤い箱に目を丸くした。

「煙草? そりゃあね。俺らぐらいの年代だったら珍しくないでしょ?」
「それは確かに……あっ……でもこれは……ラーク?」
「そうそう。赤ラークのロング。なに? 矢部さんも煙草吸うの?」

 最近転属してきたばかりの部長。遥の問いにも、ずいぶん砕けた口調で答えてくれた。
 なんでも新しい部長はかなりのシゴデキらしい。だというのに、家庭を優先したいから〜とキャリアを蹴ったというのがもっぱらの噂だ。

「あ……私は全然なんですけど……」
「それもそうか。今の若い子は煙草好きじゃないもんねぇ」

 言いながら、部長がラークの箱をスーツの懐に戻す。その拍子だった。ふ、と苦い香りが鼻を掠めたのは。

「俺もねぇ、奥さんに止められてるんだよ。健康に悪いから吸わないで! って。でもそのくせ俺が煙草吸うとこ見るの好きみたいで」
「もう。惚気ないでくださいよ」
「え〜? だって俺の奥さん可愛いし? 奥さんの好きなところ、10個ぐらいならすぐ言えるけど」

 ――荻原さんとは違う銘柄だけど、荻原さんからこんな香りがしたことあったかな?

 疑問が脳裏を掠めるが、今は仕事中だ、と遥は思考を切り替える。部長との談笑はそれで切り上げ、抱えている案件の進捗状況について話を始めたのだった。