孤高の心臓外科医は、憎しみの元恋人を熱情で囲い込む

「なるほど」
 見た目も、行動も、育ちの良さが滲んでいる。
一葉は自分と同様、彼もそこそこ裕福な家庭なのかと思った。
彼はお目当ての本を脇にはさんで、まっすぐ一葉を見た。

「こんなところでも会うなんて何かの縁だ。俺は五十嵐悠醐(いがらし・ゆうご)。医学部三年。君は?」
「先輩だったんですね。私は外国語学部二年の、篠宮一葉です」
「一葉さん、ね」

彼はかすかに微笑んで、その艶のある声で名前を呼ぶ。
一葉の頬に熱が集中した。名前を呼ばれただけなのに、心臓の音も早い。

(ど、どういうこと?)
こんなこと初めてだ。

「いつも水曜日のこの時間帯に来てるんだ。また会ったら、本の話でもしないか」

彼の誘いに、一葉は自然と頷いていた。
緊張するが、妙な安心感があるのはなぜなのだろう。

「……そのときは、ぜひ。また、おすすめ教えてください」
「ああ、もちろん」

彼はそう言い残し、一葉を置いてその場から離れた。
一葉は落ち着かないまま、手に持った短編集をぺらぺらとめくってみる。
(悠醐さんの好きなお話……ある)
目次に並んだタイトルの中に、〝退屈な話〟と、ひっそりと記されていた。

あの後、一葉は本を読んでみた。
〝退屈な話〟は、本当にタイトルの通り、退屈な話だった。
何かが起こるわけでもない。誰かが劇的に変わるわけでもない。
ただ、名声も地位も手に入れたはずの老教授が、〝満たされなさ〟に知らぬうちに蝕まれていく。
読み進めるうちに、一葉の指先の動きが止まった。

(どうして、この話はこんなにも息苦しいのだろう)

不幸な出来事が起きているわけではない。
むしろ、すべてはうまくいっているように、他人には見えている。
それなのに、何をしても埋まらない孤独が老教授の心を埋め尽くしていた。

(わたしみたい)

一葉は令嬢として生まれ、何もかも与えられてきた。
不自由などないまま、ここまで来た。
けれど母は亡くなってから、父は家にほとんど帰らなくなった。金遣いは荒くなり、どこで何をしているのかも分からない。
時折、見慣れない人物と会っているようだったが、一葉には何もできなかった。ただ、見ていることしか。
そのたびに、父にとって自分は愛されていない存在なのだと自覚した。
心の奥にぽっかりと空いた場所は、どうしても埋まらない。