孤高の心臓外科医は、憎しみの元恋人を熱情で囲い込む

強く言い聞かせ、一葉は医療事務と院内清掃の仕事を掛け持ちする生活を始めた。
初日は森下と行動を共にすることが多く、実質的に彼が一葉の指導係を担っていた。

副業二日目。
今日、一葉が担当するのは、ナースステーションの奥にあるスタッフ用トイレだった。
森下は慣れた手つきでバケツを床に置き、雑巾を手に取る。

「いいかい。病院の掃除はな、ただ綺麗にするだけじゃない。感染を広げないための仕事でもあるんだ」
「……はい」

「雑巾はこうやって固く絞る。水が滴るようじゃ駄目だ。あと、上から下へ。一度拭いたところを、もう一度汚さないように動くんだ」
実演しながら説明するその手つきは、年齢を感じさせないほどきびきびとしていて、正確だった。

「やってみなさい」
「……はいっ!」

一葉はぎこちなく雑巾を手に取り、見よう見まねで絞る。だが力の入れ方が分からず、水がわずかにぽたぽたと床に落ちた。

「だめだ、甘い! もっとしっかり力を入れて」
「す、すみません……!」

叱責に肩を震わせながらも、必死にやり直す。
その指先はまだ震えていたが、逃げ出そうとは思わなかった。
やがて一葉がある程度コツを掴み、手の動きが安定してくると、森下は「じゃあ、わしは医局の方を見てくる」と言い残し、別の持ち場へ向かう。

三階の職員フロアは広く、二人で手分けしなければ到底終わらないのだ。

(上から下へ……上から下へ……)

心の中で繰り返しながら、床に膝をつき、雑巾を滑らせる。
そのとき、不意に近くから笑い声が聞こえてきた。
顔を上げると、ナースステーションでは看護師たちが、ひと息ついた様子で談笑している。

「ねぇ、心臓血管外科の新しく入った先生、見た?」
「見た見た! 五十嵐先生のことでしょ?」