孤高の心臓外科医は、憎しみの元恋人を熱情で囲い込む



もちろん一葉も大学院を辞め、落ち込んではいたが、このまま何もせずにこの没落を受け入れて生きるという発想はなかった。自らの足で再生しなくては、と自然と思えたのだった。

それは自堕落な父親が、自己破産という事件をきっかけに、すべてリセットできたと思えた。
父の金に群がるものもいない。父の名声をはやし立てるものもいない。持っていた豪奢な家も貴金属もすべて失った。

他人は悲劇的なこの家に同情するかもしれない。でも一葉はほっとしていた。心のどこかで、父に対し地に足を付けた生活を望んでいたのだ。

悠醐との仲を引き裂かれた一葉だったが、父を見捨てることはなかった。
すぐに高時給の工場でアルバイトを初め、生計を立て直すために奮闘し、父はその間、一葉が用意したアパートでぼうっとする日々が続いたが、朝昼晩と一葉が作った料理を食べ、決まった時間に起き、寝ることで、少しずつ自分を取り戻していった。
 
一葉に対しても、少しずつ言葉が増えていき、自ら働こうという意思を持ち始めた。
悠醐との一件で、一度は父を捨てようと思ったが、一葉にとって唯一の肉親は彼しかいない。母が生きていたときの、父の優しい姿を忘れらることはできなかった。

(ようやくお父さんが変わってくれたの。このままいなくなっちゃうのは、寂しいよ)
 
少しして、手術室の扉の上部にある赤い点滅が消える。
咄嗟に立ち上がった一葉の目の前で、勢いよく扉が開いた。

「お父さん……!」
 
ストレッチャーに乗せられた父が、静かに横たわっているのが見えた。
口元に酸素マスクがしてあるので、無事に一命を取り留めたようだ。
もっと近くで顔色を窺いたかったが、すぐに一葉の前を通り過ぎていってしまう。

「ご家族の方でいらっしゃいますか?」

一葉の存在に気づいた看護師が、急いで駆け寄ってきたので、彼女はとっさに頭を下げた。

「は、はい……娘です。それで……っ。父は、大丈夫なんでしょうか」

看護師が何かを言おうとした、そのときだった。

「篠宮さんのご家族ですね」

低く、落ち着いた声が耳に届き、一葉は動きを止めた。振り返ると、手術着のままマスクを外しかけた医師が、こちらを見ている。顔はよく見えない。

「篠宮さんは心筋梗塞で一時心停止の状態でしたが、手術は無事に終了しています」

その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがほどける。

(助かった……)

安堵が胸に広がった、その次の瞬間。
すぐ近くまでやってきた彼の顔を、はっきりと捉えた。

(え……?)