花梨は東京に戻ると、すぐに店へ事情を説明し、退職の話を切り出した。
父はひとまず一命を取りとめたものの、依然として予断を許さない状態が続いている。
引っ越し作業を進めながら、病院へ通う日々。
気がつけば、あっという間に最終出勤日を迎えていた。
『いつでも戻ってきておいで』
『……ありがとうございます。皆さん、どうぞお元気で』
午前零時――閉店作業を終え、従業員に挨拶を済ませた花梨は、店を出て帰路についた。
やはり夢を抱き、人生をかけて働いていた職場を離れるのは、とても心寂しい。
けれど今は家族のことが大事だからと思えば、自然とそういう気持ちも落ち着いた。
(結局、最後まで久登さんには会えなかった)
心残りといえば、彼に助けてもらったあの日のお礼を、きちんと伝えられなかったことくらいだ。
(でももういいの。仕事も、来週から決まったし……順調、なんだから)
不要な荷物はすでに処分し、必要なものは実家へ送り終えている。
明日、アパートの引き払いを済ませれば、千葉の田舎へ戻るだけだ。
仕事も無事に決まった。経験や資格なども不問の夜間の介護施設の契約社員だ。
小規模な有料老人ホームで、夜勤は基本的に二人体制。
入居者は要介護度の低い高齢者が中心で、夜間は定時の巡回と、コール対応が主な業務だという。
医療行為はなく、身体介助も最小限。初回は研修があり、未経験でも問題ないと書かれていた。
花梨の祖母も、同じような施設に入っている。今は年金と貯金でどうにかなっているが、それがいつまで続くかは分からない。
もし金銭的に立ち行かなくなれば、在宅介護も選択肢に入れざるを得ない。
そのとき、自分が何も知らなければ、家族を支えることすらできないのだ。
(覚えておいて、損はないよね)
仕事として割り切れる範囲で、現場を知る。花梨がこの仕事を選んだ理由は、ただそれだけだった。
『花梨さん!』


