――その日を境に、久登の来店頻度も少し上がり、そして花梨との会話も増えていった。
挨拶や天気、花梨が担当した料理の話。どれもささやかな内容だったが、彼との会話は心地よかった。
いつしか久登の来店を待ち遠しく感じる自分に気づいて、花梨は胸の奥で、小さく自分を戒めた。
お客様以上の感情を持っているなんて、プロ失格だと思うから。
(久登さんだけ特別視しちゃだめ。私は夢を叶えるために、ここにいるのに)
今まで、全く恋をしてこなかったわけではない。学生時代から何人か恋人もできたことがある。
そこで分かったのは、自分は好きな人を深く愛してしまうということだ。想いすぎて重いと、何度か振られた。
だから〝母親の手料理の味で店を構える〟という夢を見つけた時、それ以外のもの――恋や結婚、子供は二の次……むしろ捨てるという気持ちで向き合うと決めた。
その誓い通り、専門学生時代は技術を磨くことに注力して、名店であるONODERAに就職できたのだ。
ようやくここまで歩んできた。今、久登に恋心を抱いて仕事に集中できなくなることだけは避けたい。
そう言い聞かせる日が続いたある日、とある事件が起きた。
『ねぇー、この子超かわいい! 連絡知りたいなぁ~』
平日の夜。ディナーも終盤に差し掛かり、入店と退店が目まぐるしい時間帯に、大きな笑い声が店内に響いた。
ホールで配膳作業をしていた花梨の腕を、男が馴れ馴れしく掴む。
骨ばった指先が、制服の上からでもはっきり分かるほど強く食い込み、酒の匂いをまとった顔が、ぐっと近づいてきた。
花梨は声を上げそうになるのを、必死に耐える。
(どうしよう。この人、離してくれない……)
客もスタッフも、皆一斉にふたりへ視線を送るが、誰もが何事もなかったかのように視線を逸らし、それぞれの作業に戻った。
見なかったことにする。今はそれどころではない――。
そんな無言の圧力が花梨にのしかかった。
彼女にしつこく絡むこの男は、旬を過ぎた年配の俳優――角田誠一(かくた・せいいち)。
彼は歴だけは長くプライドもあるからなのか、会話のほとんどが自慢話。
素面のときもやや高圧的だが、酒が入ると悪い部分が顕著に表れる。
オーナーも頭を悩ませている常連で、どうやって出入り禁止にするかという話し合いも行われているくらいだ。
これまでにも花梨に絡んできたことはあったが、今日は明らかに度を越している。
「……あの。ご気分が悪いでしょうか。お水をお持ちいたしますよ」
挨拶や天気、花梨が担当した料理の話。どれもささやかな内容だったが、彼との会話は心地よかった。
いつしか久登の来店を待ち遠しく感じる自分に気づいて、花梨は胸の奥で、小さく自分を戒めた。
お客様以上の感情を持っているなんて、プロ失格だと思うから。
(久登さんだけ特別視しちゃだめ。私は夢を叶えるために、ここにいるのに)
今まで、全く恋をしてこなかったわけではない。学生時代から何人か恋人もできたことがある。
そこで分かったのは、自分は好きな人を深く愛してしまうということだ。想いすぎて重いと、何度か振られた。
だから〝母親の手料理の味で店を構える〟という夢を見つけた時、それ以外のもの――恋や結婚、子供は二の次……むしろ捨てるという気持ちで向き合うと決めた。
その誓い通り、専門学生時代は技術を磨くことに注力して、名店であるONODERAに就職できたのだ。
ようやくここまで歩んできた。今、久登に恋心を抱いて仕事に集中できなくなることだけは避けたい。
そう言い聞かせる日が続いたある日、とある事件が起きた。
『ねぇー、この子超かわいい! 連絡知りたいなぁ~』
平日の夜。ディナーも終盤に差し掛かり、入店と退店が目まぐるしい時間帯に、大きな笑い声が店内に響いた。
ホールで配膳作業をしていた花梨の腕を、男が馴れ馴れしく掴む。
骨ばった指先が、制服の上からでもはっきり分かるほど強く食い込み、酒の匂いをまとった顔が、ぐっと近づいてきた。
花梨は声を上げそうになるのを、必死に耐える。
(どうしよう。この人、離してくれない……)
客もスタッフも、皆一斉にふたりへ視線を送るが、誰もが何事もなかったかのように視線を逸らし、それぞれの作業に戻った。
見なかったことにする。今はそれどころではない――。
そんな無言の圧力が花梨にのしかかった。
彼女にしつこく絡むこの男は、旬を過ぎた年配の俳優――角田誠一(かくた・せいいち)。
彼は歴だけは長くプライドもあるからなのか、会話のほとんどが自慢話。
素面のときもやや高圧的だが、酒が入ると悪い部分が顕著に表れる。
オーナーも頭を悩ませている常連で、どうやって出入り禁止にするかという話し合いも行われているくらいだ。
これまでにも花梨に絡んできたことはあったが、今日は明らかに度を越している。
「……あの。ご気分が悪いでしょうか。お水をお持ちいたしますよ」


