タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 侯爵家主催の夜会は、季節の変わり目を祝う名目で開かれた。
 広間には色とりどりのドレスと、磨き上げられた燕尾服が行き交っている。
 シャンデリアの光が床の大理石に反射して、まるで水面のように揺れていた。
 笑い声と音楽。
 グラスの触れ合う音。
 社交界の夜会とはいつもこういうものだ。
 華やかで、そして油断のならない場所でもある。

 ――策謀の気配は弱いわね。

 キャサリンは広間の端に立ち、グラスを手に全体を見渡していた。
 エマが耳元で小さく告げる。

「メアリー様は、あちらに」

 視線を向ければ、広間の中ほどにメアリーの姿があった。
 落ち着いた青のドレス。
 きちんと整えられた金色の髪。
 立ち居振る舞いに無駄はなく、それでいて堅苦しくもない。
 話しかけてきた年配の夫人に、自然な笑顔で応じている。育ちの良さが滲み出るような、そういう令嬢だった。

 ――なるほどね。

 フィリップが陰で慕うのも、わかる気がした。

「ロナルド様は?」
「少し前から、奥の一角に。取り巻きと話しております」

 エマの示す方向に、いかにも自信家らしい男の姿があった。
 年のころは二十代の半ばだろう。
 仕立ての良い上着に、磨かれた靴。外見だけを切り取れば、たしかに悪くはない。
 だが、あの種の男は自分しか見ていないはずだ。

「……」

 キャサリンはグラスを口元に運びながら、観察をつづけた。
 夜会が進むにつれて、会場の空気が少しずつ変わっていく。
 音楽が止まり、人々の動きが自然と中央へ集まり始める。こういう予兆はいつも似ている。だれかが、何かをしようとしているのだ。

 ロナルドが広間の中央に進み出た。
 取り巻きを3人ほど連れている。その足取りには迷いがなく、これから何をするかを決心しているようだった。

「少々、皆様にご報告がございます」

 よく通る声が、広間に響いた。
 周囲の話し声が自然と収まっていく。
 ロナルドはそれを確認してから、満足げに続ける。

「本日をもって、メアリー嬢との婚約を解消いたします」

 ざわめきが走った。
 メアリーが、静かにロナルドを見た。
 驚いた様子はない。おそらく、予感はあったのだろう。しかし、その目には隠しきれない傷の色もあった。

「理由をお聞かせいただいてもよろしいですか?」

 メアリーの声は落ち着いていた。

「もちろんです」

 ロナルドが、芝居がかった仕草で首を振った。

「残念ながら、メアリー嬢が他の男性と密かに逢瀬を重ねていたという事実が明らかになりました。これ以上、婚約を継続することは我が家の名誉に関わります」

 どよめきが広間を包む。

「証人もおります」

 ロナルドが目配せをすると、取り巻きの1人が進み出た。

「私が直接、目にしました。夜半過ぎに、メアリー嬢が見知らぬ男性と人目を避けるように」

 さらにもう1人も続く。

「私も同様に。場所も日時も、はっきりと覚えております」

 メアリーの顔がわずかに青ざめた。

「……。そのような事実はありません」
「ですが、証人が2人もおります」

 ロナルドが涼しい顔で返す。

「メアリー嬢のお言葉だけでは、いかんともしがたい」

 追い打ちをかけるように、周囲の視線がメアリーに集まった。
 同情する者も、疑う者も、野次馬的な好奇心を向ける者も、すべてがメアリーにとっての重荷になっているようだ。

 キャサリンは広間の端から、その一部始終を眺めていた。

 ――まさか……これだけ?

 手口はひどく単純だった。
 証言者はたったの2人だけだ。
 書類の偽造もなければ、精巧な工作の痕跡もない。
 ロナルドという男は、自分の地位と声の大きさだけを武器にしていた。
 それで十分だと思っているのだろう。

「……」

 実際、この場だけを見れば、それは正しかった。当事者のメアリーが否定するだけでは、場の空気を覆せていない。メアリーは孤立していた。

 キャサリンは動こうとしたが、足が止まった。

 ――どうせまたエマにお節介を頼まれるくらいなら、こっちをコテンパンにしたほうがいいわね。

 フィリップのためというわけではないが、キャサリンは最後まで見守ることに決める。

「……メアリー様の不貞が事実であれば、当然、賠償の問題も生じますな」

 ロナルドの取り巻きの1人が、さも当然のように口にした。
 賠償。
 その言葉が、広間の空気に静かに溶けていく。
 同情の視線が、すぐさま好奇の視線へと変わる。
 メアリーが唇を一度だけ噛んだ。

 ――ただの令嬢ではないわね……。妙なところで引っかかるわ。

 メアリーは傷ついている。それは確かだろう。
 だが、決して折れてはいない。この状況でめげないのは、相当の芯の強さだ。

「……」

 ロナルドが広間を見回した。
 その顔には、勝ち誇った色があった。
 周囲の反応が思い通りで、気分が良いのだろう。自分が仕掛けた罠が完璧に機能したと、そう信じている顔だった。

 キャサリンはグラスをそっとテーブルに置いた。

「エマ、帰りましょう」

 静かに踵を返す。
 広間を出る前に、もう一度だけメアリーに目をやった。人々の視線の中に立つ彼女は、それでもまだ背筋を伸ばしていた。

 ――ちょっとだけ、待っていなさいな。

 キャサリンは心の中でそう告げて、夜会の喧騒を背にした。
 馬車に乗りこんだキャサリンは、窓の外に流れる夜の街を見ながら、考えをまとめていた。今夜、目にしたものを、ひとつ残らず頭に刻み込む。

 ロナルドの立ち位置。
 証言者の顔。
 メアリーが孤立するまでの流れ。
 賠償という言葉が出たタイミング。

「ロナルドの証言者は、2人とも取り巻きだったわね?」
「はい。いずれも、ロナルド様に近しい人間のようです」
「そう……。それならば話は早いわ」

 キャサリンが窓から視線を外し、まっすぐに前を向いた。

「始めましょうか」

 エマが静かに一礼する。
 馬車は夜の王都を、ゆっくりと走り続けた。