キャサリンの一言が落ちた瞬間に、大広間の空気は完全に反転していた。
先ほどまでは、まだわずかにキャサリンに対する疑念と軽蔑が残っていた。
そういう視線が向けられていたのだ。
だが、今はもう違う。
それらの視線はすべて別の方向へと向かっていた。
「……まさか、本当に」
「王太子殿下が、そのようなことを……」
ざわめきは、もはや隠そうともされない。
露骨な陰口。
ひそひそと交わされる不愉快な声。
突き刺さる悪感情に耐え切れず、ジェームズ殿下とミレイユがやみくもに腕を振る。
「ええい、黙れ……! こんなもの、でっちあげだ!」
声を荒げる。
しかし、その言葉にはもはや、先ほどまでの威厳がなかった。
「証言が一つ覆った程度だ! こんなもので身の潔白が証明できるものか!」
「ええ、そのとおりでございますね」
キャサリンが穏やかに頷いた。
「そう仰るだろうと思って、もう一つプレゼントをご用意いたしました」
「……。何?」
ジェームズ殿下の顔が引きつった。
その反応は、もはや答えに等しい。
「エマ」
「はい」
取り出されたのは数枚の書類。
「こちらは、グレイソン書記官にまつわる直近の取引記録です」
「なっ……」
「ここ数日で、ずいぶんと多額の金銭が動いているようなのですが……?」
「そ、それがどうした!」
「その出所が問題なのです」
敗北は明らかだというのに、ジェームズ殿下は認められないらしい。
なおも、キャサリンに食ってかかる。
それを受けてキャサリンも、紙の一枚を指で示した。
「少々手荒な方法ですが、確かめさせていただきました。名義は男爵家――ミレイユ嬢のご実家でございます」
「っ……!」
ミレイユの顔色はかわいそうなくらいに青ざめていた。
こんな場面でもなければ、さぞかし多くの人間が手を差し伸べたことだろう。
しかし、これは2人が招いたこと。
ここに2人を助けようなどという酔狂な者は1人もおらず、キャサリンの邪魔をしようという愚かな人間もいなかった。
「馬鹿な! あれほど出所は隠せと言ったではないか!」
「そ、そんな! 誤解です。わたくしはしっかりと――」
「できていないではないか!」
言い逃れは不可能だ。
仲介に使った受け渡しの人間に裏切られたのだ。もっとも、そこはキャサリンが裏切らせたというほうが正確なのだが……。
「不自然なのは、これだけの金額が動いたにもかかわらず、男爵家の資産は大きく変動していないのです。おかしいですわね。きっと、別の人もお金を動かしたのでしょう」
ジェームズ殿下が後ずさる。
「な、何が言いたい……」
「これは単なる婚約の問題ではございません」
断罪するのは自分の番だ。
キャサリンははっきりと告げる。
「ジェームズ殿下が一部を持ったのでしょう? 公的資金の不正使用……立派な罪でございます。国民全体に対する裏切りですわね」
キャサリンの言葉にジェームズ殿下は膝から崩れ落ちた。
「そこまでにしようか」
落ち着いた声が沈黙を切り裂く。
振り返るまでもない。
第二王子のルシアン殿下だ。
「事実は十分に明らになったと見る」
ゆっくりとルシアン殿下が前へ進み出る。
その歩みを阻む者はいない。
だれもが場所を開け、ルシアン殿下の通り道を作っていく。
ルシアン殿下が一歩進むごとに、会場の空気が引き締まっていくようだった。
「兄上、本件は看過するわけにはいかないな」
「ま、待て……これは……!」
「弁明は後で聞こう」
冷ややかにルシアン殿下が実兄を見やる。
逃げ道はもうどこにもないのだ。
力尽きたようにがっくりとジェームズ殿下がうなだれた。
「衛兵、2人を拘束しろ」
短い命令に、すぐさま数名の兵士が現れた。
兵士たちが腕を取る。
力尽きたようにジェームズ殿下はおとなしく従ったが、ミレイユはそうではない。
「ふざけないで! 冗談じゃないわ。なんでわたくしがこんな目に! いや! いやぁああああ!!!!」
ミレイユの悲鳴が響く。
しかし、同情する者はどこにもいない。
「当然の報いだ」
「よくもまあ、あれほどのことを……」
「素晴らしい余興でしたな。酒が進んでしまいますわ」
四方からはキャサリンを味方する声しか届かない。
――終わったのね。
キャサリンが、その光景を見つめる。
かつては、あの場所に何もできない自分がいた。
けれど今キャサリンは、全く違う景色の中に立っていた。
✿✿✿❀✿✿✿
王太子による陰謀。
未曽有の騒ぎが収束したあとの大広間は、まるで何事もなかったかのように整えられていた。
無論、だれもが理解している。
今夜起きた出来事の重さを。
「キャサリン嬢」
呼びかけに振り返る。
ルシアン殿下が、静かに歩み寄って来ていた。
「これはルシアン殿下」
キャサリンも頭を軽く下げて応えた。
「見事だった」
「もったいないお言葉でございます」
「いや、本心だよ。正直、ここまでとは思っていなかった」
「私こそ、ちょうどよい頃合いで殿下が仲裁してくれたので、とても助かりました」
「保険としては十分に機能したということかな?」
くすりとルシアン殿下が笑う。
その表情はどこか楽しげだった。
「それはもう十二分に」
「……。これであなたは自由だ」
ルシアン殿下の言葉が、キャサリンの胸にすとんと落ちた。
――自由。
それはキャサリンにとって、考えたこともないことだった。
生まれたのは公爵の娘。
婚約者として――政略結婚の道具として生きることが、当然だと思っていた。自分の使命とさえ思っていた。
けれど今は違う。
「ようやく、手に入れられました」
小さく息を吐く。
長く縛られていたものが、ほどけていくような感覚があった。
それと同時に迷いもする。
キャサリンの機微に触れたわけではないのだろうが、ルシアン殿下がちょうどそこをつついた。
「今後のことは、もう決めているのかな?」
「……いいえ、まだ」
首を横に振る。
そうして、少しだけ微笑んだ。
「これから考えるのも、悪くはないかと」
「それもそうだな」
ルシアン殿下は満足げにうなずく。
「ルシアン殿下こそ、今後はどうされるのですか?」
「愚兄の後始末だな。キャサリン嬢のおかげで失脚してくれたので」
ルシアン殿下がまじまじとキャサリンを見つめた。
「……。何か?」
「キャサリン嬢、私はあなたにとても興味がある」
一見すれば愛の告白とも思える台詞。
だが、その目は決して、妙齢の女性に向ける視線ではない。
明らかに何かを探るような目線だった。
――気がついている? いいえ、まさか。
「私なんてとてもとても……」
キャサリンは冷静に謙遜した。
だが、ルシアン殿下はためらわない。
「もし、よろしければ、そなたの隣に立つ機会を私にいただけるかな?」
押しの強さはジェームズ殿下とおんなじか。
――いいえ、違うわ。この方は私が、今回の件でルシアン殿下に貸しを作ったことを承知で言っている。
つまり、これは新たな取り引き。
恋愛なんかではない。
打算と策略の一環だ。
――断れない。
それならば、こちらも王族の権威を使わせてもらうまでだ。
キャサリンは引かず、前に出る。
行動しなければ何も守れない。
攻めの姿勢こそが身を救うのだと、学んだばかりではないか。
「ええ、もちろんですわ。私のような無才でもご満足いただけるのでしたら」
「構わないさ。無才に目をかけるほど私が愚かなら、そなたは私にこたびの仲裁を任せていないだろうからね」
即答だった。
言うだけ言って、ルシアン殿下が去っていく。
その背中が見えなくなってから、キャサリンは侍女をそばに呼んでいた。
「エマ」
「こちらに」
「これからは忙しくなるわ」
「承知しております。まずは何からはじめましょうか?」
夜風がやわらかく頬を撫でる。
バルコニーに出て、キャサリンは静かに空を見上げた。
星が瞬いている。
――男性はダメね。
やるべきことはたくさんある。
やりたいことも。
――ルシアン殿下に対抗したいなら、私だけの力では難しい。
仲間が必要だ。
それも恋や愛でつながった仲間ではいけない。
臣下――理想は友情だ。
――女の子はどうかしら?
自分以外にも泣き寝入りをさせられた女性たちがいるのではないか。
相手は周到に準備をして来ているのだ。
女性一人だけで打ち勝てるとは思えなかった。
もしも、自分がそれを覆せるならば、その女性とは友情を結べるかもしれない。
――もしも、ではないわね。やるのよ、必ず。
ずいぶんと冷血で合目的な考えにも思えるが、もちろん打算だけで助けようというのではない。
キャサリンには同じ女性として相手を放っておけない気持ちと、ジェームズ殿下のような不埒な男性を地獄に叩き落とさなければいけないという義憤が確かに存在した。
――たぶん、それがきっと私に与えられた能力。
あの日とは違う、穏やかな夜。
「……二度目なら失敗しない」
だれに聞かせるでもなく、キャサリンは小さくつぶやいた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
――いいでしょう。それが私の進むべき道というのであれば。
この世にいるヒロインたちを救ってみせようではないか。
裁きの鉄槌を男性たちに下してやろう。
それが自分の身を守る未来へと確かにつながっている。
先ほどまでは、まだわずかにキャサリンに対する疑念と軽蔑が残っていた。
そういう視線が向けられていたのだ。
だが、今はもう違う。
それらの視線はすべて別の方向へと向かっていた。
「……まさか、本当に」
「王太子殿下が、そのようなことを……」
ざわめきは、もはや隠そうともされない。
露骨な陰口。
ひそひそと交わされる不愉快な声。
突き刺さる悪感情に耐え切れず、ジェームズ殿下とミレイユがやみくもに腕を振る。
「ええい、黙れ……! こんなもの、でっちあげだ!」
声を荒げる。
しかし、その言葉にはもはや、先ほどまでの威厳がなかった。
「証言が一つ覆った程度だ! こんなもので身の潔白が証明できるものか!」
「ええ、そのとおりでございますね」
キャサリンが穏やかに頷いた。
「そう仰るだろうと思って、もう一つプレゼントをご用意いたしました」
「……。何?」
ジェームズ殿下の顔が引きつった。
その反応は、もはや答えに等しい。
「エマ」
「はい」
取り出されたのは数枚の書類。
「こちらは、グレイソン書記官にまつわる直近の取引記録です」
「なっ……」
「ここ数日で、ずいぶんと多額の金銭が動いているようなのですが……?」
「そ、それがどうした!」
「その出所が問題なのです」
敗北は明らかだというのに、ジェームズ殿下は認められないらしい。
なおも、キャサリンに食ってかかる。
それを受けてキャサリンも、紙の一枚を指で示した。
「少々手荒な方法ですが、確かめさせていただきました。名義は男爵家――ミレイユ嬢のご実家でございます」
「っ……!」
ミレイユの顔色はかわいそうなくらいに青ざめていた。
こんな場面でもなければ、さぞかし多くの人間が手を差し伸べたことだろう。
しかし、これは2人が招いたこと。
ここに2人を助けようなどという酔狂な者は1人もおらず、キャサリンの邪魔をしようという愚かな人間もいなかった。
「馬鹿な! あれほど出所は隠せと言ったではないか!」
「そ、そんな! 誤解です。わたくしはしっかりと――」
「できていないではないか!」
言い逃れは不可能だ。
仲介に使った受け渡しの人間に裏切られたのだ。もっとも、そこはキャサリンが裏切らせたというほうが正確なのだが……。
「不自然なのは、これだけの金額が動いたにもかかわらず、男爵家の資産は大きく変動していないのです。おかしいですわね。きっと、別の人もお金を動かしたのでしょう」
ジェームズ殿下が後ずさる。
「な、何が言いたい……」
「これは単なる婚約の問題ではございません」
断罪するのは自分の番だ。
キャサリンははっきりと告げる。
「ジェームズ殿下が一部を持ったのでしょう? 公的資金の不正使用……立派な罪でございます。国民全体に対する裏切りですわね」
キャサリンの言葉にジェームズ殿下は膝から崩れ落ちた。
「そこまでにしようか」
落ち着いた声が沈黙を切り裂く。
振り返るまでもない。
第二王子のルシアン殿下だ。
「事実は十分に明らになったと見る」
ゆっくりとルシアン殿下が前へ進み出る。
その歩みを阻む者はいない。
だれもが場所を開け、ルシアン殿下の通り道を作っていく。
ルシアン殿下が一歩進むごとに、会場の空気が引き締まっていくようだった。
「兄上、本件は看過するわけにはいかないな」
「ま、待て……これは……!」
「弁明は後で聞こう」
冷ややかにルシアン殿下が実兄を見やる。
逃げ道はもうどこにもないのだ。
力尽きたようにがっくりとジェームズ殿下がうなだれた。
「衛兵、2人を拘束しろ」
短い命令に、すぐさま数名の兵士が現れた。
兵士たちが腕を取る。
力尽きたようにジェームズ殿下はおとなしく従ったが、ミレイユはそうではない。
「ふざけないで! 冗談じゃないわ。なんでわたくしがこんな目に! いや! いやぁああああ!!!!」
ミレイユの悲鳴が響く。
しかし、同情する者はどこにもいない。
「当然の報いだ」
「よくもまあ、あれほどのことを……」
「素晴らしい余興でしたな。酒が進んでしまいますわ」
四方からはキャサリンを味方する声しか届かない。
――終わったのね。
キャサリンが、その光景を見つめる。
かつては、あの場所に何もできない自分がいた。
けれど今キャサリンは、全く違う景色の中に立っていた。
✿✿✿❀✿✿✿
王太子による陰謀。
未曽有の騒ぎが収束したあとの大広間は、まるで何事もなかったかのように整えられていた。
無論、だれもが理解している。
今夜起きた出来事の重さを。
「キャサリン嬢」
呼びかけに振り返る。
ルシアン殿下が、静かに歩み寄って来ていた。
「これはルシアン殿下」
キャサリンも頭を軽く下げて応えた。
「見事だった」
「もったいないお言葉でございます」
「いや、本心だよ。正直、ここまでとは思っていなかった」
「私こそ、ちょうどよい頃合いで殿下が仲裁してくれたので、とても助かりました」
「保険としては十分に機能したということかな?」
くすりとルシアン殿下が笑う。
その表情はどこか楽しげだった。
「それはもう十二分に」
「……。これであなたは自由だ」
ルシアン殿下の言葉が、キャサリンの胸にすとんと落ちた。
――自由。
それはキャサリンにとって、考えたこともないことだった。
生まれたのは公爵の娘。
婚約者として――政略結婚の道具として生きることが、当然だと思っていた。自分の使命とさえ思っていた。
けれど今は違う。
「ようやく、手に入れられました」
小さく息を吐く。
長く縛られていたものが、ほどけていくような感覚があった。
それと同時に迷いもする。
キャサリンの機微に触れたわけではないのだろうが、ルシアン殿下がちょうどそこをつついた。
「今後のことは、もう決めているのかな?」
「……いいえ、まだ」
首を横に振る。
そうして、少しだけ微笑んだ。
「これから考えるのも、悪くはないかと」
「それもそうだな」
ルシアン殿下は満足げにうなずく。
「ルシアン殿下こそ、今後はどうされるのですか?」
「愚兄の後始末だな。キャサリン嬢のおかげで失脚してくれたので」
ルシアン殿下がまじまじとキャサリンを見つめた。
「……。何か?」
「キャサリン嬢、私はあなたにとても興味がある」
一見すれば愛の告白とも思える台詞。
だが、その目は決して、妙齢の女性に向ける視線ではない。
明らかに何かを探るような目線だった。
――気がついている? いいえ、まさか。
「私なんてとてもとても……」
キャサリンは冷静に謙遜した。
だが、ルシアン殿下はためらわない。
「もし、よろしければ、そなたの隣に立つ機会を私にいただけるかな?」
押しの強さはジェームズ殿下とおんなじか。
――いいえ、違うわ。この方は私が、今回の件でルシアン殿下に貸しを作ったことを承知で言っている。
つまり、これは新たな取り引き。
恋愛なんかではない。
打算と策略の一環だ。
――断れない。
それならば、こちらも王族の権威を使わせてもらうまでだ。
キャサリンは引かず、前に出る。
行動しなければ何も守れない。
攻めの姿勢こそが身を救うのだと、学んだばかりではないか。
「ええ、もちろんですわ。私のような無才でもご満足いただけるのでしたら」
「構わないさ。無才に目をかけるほど私が愚かなら、そなたは私にこたびの仲裁を任せていないだろうからね」
即答だった。
言うだけ言って、ルシアン殿下が去っていく。
その背中が見えなくなってから、キャサリンは侍女をそばに呼んでいた。
「エマ」
「こちらに」
「これからは忙しくなるわ」
「承知しております。まずは何からはじめましょうか?」
夜風がやわらかく頬を撫でる。
バルコニーに出て、キャサリンは静かに空を見上げた。
星が瞬いている。
――男性はダメね。
やるべきことはたくさんある。
やりたいことも。
――ルシアン殿下に対抗したいなら、私だけの力では難しい。
仲間が必要だ。
それも恋や愛でつながった仲間ではいけない。
臣下――理想は友情だ。
――女の子はどうかしら?
自分以外にも泣き寝入りをさせられた女性たちがいるのではないか。
相手は周到に準備をして来ているのだ。
女性一人だけで打ち勝てるとは思えなかった。
もしも、自分がそれを覆せるならば、その女性とは友情を結べるかもしれない。
――もしも、ではないわね。やるのよ、必ず。
ずいぶんと冷血で合目的な考えにも思えるが、もちろん打算だけで助けようというのではない。
キャサリンには同じ女性として相手を放っておけない気持ちと、ジェームズ殿下のような不埒な男性を地獄に叩き落とさなければいけないという義憤が確かに存在した。
――たぶん、それがきっと私に与えられた能力。
あの日とは違う、穏やかな夜。
「……二度目なら失敗しない」
だれに聞かせるでもなく、キャサリンは小さくつぶやいた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
――いいでしょう。それが私の進むべき道というのであれば。
この世にいるヒロインたちを救ってみせようではないか。
裁きの鉄槌を男性たちに下してやろう。
それが自分の身を守る未来へと確かにつながっている。

