新薬の正式な認可が下りたのは、騒動から2週間後のことだった。
王宮からの書状を手にしたリディアは、しばらくの間、その紙面を見つめて動かなかった。
泣くかと思ったが、涙は出なかった。
ただ、胸の奥がじわりと温かくなる感覚だけがあった。
「……届けに行かないと」
独り言が調合室にこだまする。
リディアは書状を丁寧にたたみ、薬の入った小箱を手に取った。
診療所に着いたのは、昼過ぎのことだった。
顔なじみの医師が出迎えてくれる。
いつもと変わらない廊下。
いつもと変わらない薬草の匂い。
ただ、その奥から聞こえてくる声が、少しだけ違った。
「カイム」
扉を開けると、少年はベッドの上に起き上がっていた。
顔色が、いつもとまるで違う。
青白かった頬に、うっすらと赤みが戻っている。
「姉ちゃん!」
その声が、廊下まで響いた。
「持って来たよ」
小箱をカイムに見せると、少年は目を丸くした。
「それが……例の薬?」
「そう。本物よ」
リディアがカイムの隣に腰を下ろす。
小箱を開くと、中には丁寧に包まれた薬が並んでいた。
あの夜、夜明けまでかけて仕上げた処方が、今ここにある。
「絶対に自力で治すって言ってたくせに」
リディアがくすりと笑った。
「うるさいな」
カイムが照れたように顔をそらす。
「いいだろ別に。負けは負けだって、認めているんだから」
その横顔を、リディアはしばらく眺めた。
ここにいる。
ちゃんと、ここにいる。
胸の中に、7年分の夜が一枚ずつ溶けていくような感覚があった。
「ありがとう、カイム」
「何が?」
カイムが不思議そうに振り返る。
「諦めないでいてくれて」
カイムがぷいとそっぽを向いた。
「……姉ちゃんが先に諦めなかったんだろ」
その一言が、胸に深く刺さった。
リディアは笑いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。
✿✿✿❀✿✿✿
診療所をあとにしたリディアは、しばらく王都の通りを歩いた。
空は高く晴れている。
秋の風が頬をなでた。
特に急ぐ用はない。
それがひどく新鮮な感覚だった。
いつも何かを急いでいた。
いつも、まだ終わっていないことがあった。
それなのに今日は、ただ歩いていていい。
「リディアさん」
不意に、後ろから声がかかった。
振り返る。
王宮付きの若い薬師が、こちらに向かって歩いて来るところだった。
発表会場で最初に手を挙げた、あの青年だ。
飾り気のない服装に、ぼさぼさとした髪。
白衣姿でなければ、とても医師には見えない風貌だが、その目だけはあの日と変わらず真剣だった。
「少しよろしいですか」
青年は立ち止まり、リディアと視線を合わせた。
「あの欠陥を仕込んだとき、薬師としては相当の覚悟だったと思います」
問いではなかった。
確認だった。
「……あなたこそ」
リディアが少し驚いた表情のまま、口を開く。
「発表の場で最初に手を挙げてくれた。あの質問がなければ、私の計画は成立しなかった」
「それは……ただ、道楽気分で研究をやっていそうな侯爵の、鼻っ柱を明かしてやりたかっただけです」
青年が首の後ろを掻きながら、ばつが悪そうに答えた。
その仕草が、なんとなくおかしくて、リディアの口元がほぐれる。
「そうですか。……ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは……」
青年が言いかけて、止まった。
リディアがまっすぐに自分を見ていることに、気づいたのだろう。
咳払い。
今度は少し改まったように青年は言った。
「難病の子どもに薬が届いたというのは、本当ですか?」
その目に、純粋な期待があった。
医師として、ただそれだけを確かめたいという目だった。
「ええ、今日届けてきました」
リディアが答えると、青年は少しだけ息を吐いた。
安堵の、深い息だった。
「……そうですか」
独り言のように小さな声だった。
それからしばらく、2人の間に静かな時間が流れた。
通りを往来する人の声と、風の音だけが聞こえる。
「また、話を聞かせてもらえますか」
青年が、ためらいがちに言った。
「あの薬の仕組みを、もっと詳しく知りたいのです。医師として、正しく使えるようになりたい」
リディアは少しだけ考えてから、うなずいた。
だれでも使えるようにしたつもりなので、聞きたいのはそういった表層の部分にはないのだろう。
「構いません。ただし、私の説明は少々長いですよ。なにせ7年ぶんがありますから」
「大丈夫です。僕もくどいとよく言われますから」
青年が笑った。
飾り気のない、素直な笑顔だった。
リディアも釣られるようにして笑う。
自分でも気づかないうちに、力の抜けた笑みがこぼれていた。
✿✿✿❀✿✿✿
その様子を、少し離れた場所からキャサリンが見ていた。
エマと2人で、通りの端に立っている。
特に隠れているわけでもないが、リディアたちには気づかれていないようだった。
「……」
リディアが笑っている。
あの調合室で机に向かっていた顔でも、王宮の発表会場で静かな怒りをたたえていた顔でも、処罰の場で毅然と立っていた顔でもない。
ただの22歳かそこらの娘の顔だった。
――だから言ったじゃない。
キャサリンは胸の中で静かにそう思った。
侍女のほうを一瞥したキャサリンが、呆れたように言う。
「あなたって、こういうお節介が好きよね」
「ええ、メイドの本質は余計なことにまで気を遣うことですから」
「……」
キャサリンはうまく言葉を返せない。
「次はどちらへ参りましょう?」
もうここに、キャサリンたちの出番はない。
キャサリンは踵を返す。
「王都はまだまだ広いわ」
口元が、ほんの少しだけ緩む。
エマが静かについてくる。
2人の足音が、秋の石畳に響いた。
空は高く、よく晴れていた。
王宮からの書状を手にしたリディアは、しばらくの間、その紙面を見つめて動かなかった。
泣くかと思ったが、涙は出なかった。
ただ、胸の奥がじわりと温かくなる感覚だけがあった。
「……届けに行かないと」
独り言が調合室にこだまする。
リディアは書状を丁寧にたたみ、薬の入った小箱を手に取った。
診療所に着いたのは、昼過ぎのことだった。
顔なじみの医師が出迎えてくれる。
いつもと変わらない廊下。
いつもと変わらない薬草の匂い。
ただ、その奥から聞こえてくる声が、少しだけ違った。
「カイム」
扉を開けると、少年はベッドの上に起き上がっていた。
顔色が、いつもとまるで違う。
青白かった頬に、うっすらと赤みが戻っている。
「姉ちゃん!」
その声が、廊下まで響いた。
「持って来たよ」
小箱をカイムに見せると、少年は目を丸くした。
「それが……例の薬?」
「そう。本物よ」
リディアがカイムの隣に腰を下ろす。
小箱を開くと、中には丁寧に包まれた薬が並んでいた。
あの夜、夜明けまでかけて仕上げた処方が、今ここにある。
「絶対に自力で治すって言ってたくせに」
リディアがくすりと笑った。
「うるさいな」
カイムが照れたように顔をそらす。
「いいだろ別に。負けは負けだって、認めているんだから」
その横顔を、リディアはしばらく眺めた。
ここにいる。
ちゃんと、ここにいる。
胸の中に、7年分の夜が一枚ずつ溶けていくような感覚があった。
「ありがとう、カイム」
「何が?」
カイムが不思議そうに振り返る。
「諦めないでいてくれて」
カイムがぷいとそっぽを向いた。
「……姉ちゃんが先に諦めなかったんだろ」
その一言が、胸に深く刺さった。
リディアは笑いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。
✿✿✿❀✿✿✿
診療所をあとにしたリディアは、しばらく王都の通りを歩いた。
空は高く晴れている。
秋の風が頬をなでた。
特に急ぐ用はない。
それがひどく新鮮な感覚だった。
いつも何かを急いでいた。
いつも、まだ終わっていないことがあった。
それなのに今日は、ただ歩いていていい。
「リディアさん」
不意に、後ろから声がかかった。
振り返る。
王宮付きの若い薬師が、こちらに向かって歩いて来るところだった。
発表会場で最初に手を挙げた、あの青年だ。
飾り気のない服装に、ぼさぼさとした髪。
白衣姿でなければ、とても医師には見えない風貌だが、その目だけはあの日と変わらず真剣だった。
「少しよろしいですか」
青年は立ち止まり、リディアと視線を合わせた。
「あの欠陥を仕込んだとき、薬師としては相当の覚悟だったと思います」
問いではなかった。
確認だった。
「……あなたこそ」
リディアが少し驚いた表情のまま、口を開く。
「発表の場で最初に手を挙げてくれた。あの質問がなければ、私の計画は成立しなかった」
「それは……ただ、道楽気分で研究をやっていそうな侯爵の、鼻っ柱を明かしてやりたかっただけです」
青年が首の後ろを掻きながら、ばつが悪そうに答えた。
その仕草が、なんとなくおかしくて、リディアの口元がほぐれる。
「そうですか。……ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは……」
青年が言いかけて、止まった。
リディアがまっすぐに自分を見ていることに、気づいたのだろう。
咳払い。
今度は少し改まったように青年は言った。
「難病の子どもに薬が届いたというのは、本当ですか?」
その目に、純粋な期待があった。
医師として、ただそれだけを確かめたいという目だった。
「ええ、今日届けてきました」
リディアが答えると、青年は少しだけ息を吐いた。
安堵の、深い息だった。
「……そうですか」
独り言のように小さな声だった。
それからしばらく、2人の間に静かな時間が流れた。
通りを往来する人の声と、風の音だけが聞こえる。
「また、話を聞かせてもらえますか」
青年が、ためらいがちに言った。
「あの薬の仕組みを、もっと詳しく知りたいのです。医師として、正しく使えるようになりたい」
リディアは少しだけ考えてから、うなずいた。
だれでも使えるようにしたつもりなので、聞きたいのはそういった表層の部分にはないのだろう。
「構いません。ただし、私の説明は少々長いですよ。なにせ7年ぶんがありますから」
「大丈夫です。僕もくどいとよく言われますから」
青年が笑った。
飾り気のない、素直な笑顔だった。
リディアも釣られるようにして笑う。
自分でも気づかないうちに、力の抜けた笑みがこぼれていた。
✿✿✿❀✿✿✿
その様子を、少し離れた場所からキャサリンが見ていた。
エマと2人で、通りの端に立っている。
特に隠れているわけでもないが、リディアたちには気づかれていないようだった。
「……」
リディアが笑っている。
あの調合室で机に向かっていた顔でも、王宮の発表会場で静かな怒りをたたえていた顔でも、処罰の場で毅然と立っていた顔でもない。
ただの22歳かそこらの娘の顔だった。
――だから言ったじゃない。
キャサリンは胸の中で静かにそう思った。
侍女のほうを一瞥したキャサリンが、呆れたように言う。
「あなたって、こういうお節介が好きよね」
「ええ、メイドの本質は余計なことにまで気を遣うことですから」
「……」
キャサリンはうまく言葉を返せない。
「次はどちらへ参りましょう?」
もうここに、キャサリンたちの出番はない。
キャサリンは踵を返す。
「王都はまだまだ広いわ」
口元が、ほんの少しだけ緩む。
エマが静かについてくる。
2人の足音が、秋の石畳に響いた。
空は高く、よく晴れていた。

