タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 数日後、リディアが屋敷を訪ねて来た。
 約束していたわけではない。
 だが、キャサリンにはそろそろ来るだろうという予感があった。

「自分の目で確かめてきました」

 応接室に通すと、リディアは椅子に座るなり、まっすぐにキャサリンを見た。
 その目には、数日前とは違う色があった。
 困惑でも、悲しみでもない。
 静かな怒りだ。

「本当でした」
 短い言葉だ。
 しかしその重さは、十分にキャサリンにも伝わった。

「ヴィクターが申請の準備を進めていること。セリーヌ嬢がヴィクターの周りで動いていること。そして……私が『待ってほしい』と言ったことを、ヴィクターが軽く見ていること」

「そうですか」

 キャサリンは小さなあいづちを打つ。
 余計なことは言わない。
 今のリディアに必要なのは同情ではないはずだ。
 リディアが顔を上げる。

「それで、私はどうすればいいでしょうか?」

 その質問は、弱さから来るものではなかった。
 次に進む準備ができているからこそのものだ。

「まずは薬を完成させましょう。あなたにならもう、それができるはずです」

 リディアがわずかに目を見開いた。



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 その日から2人の作業ははじまっていた。
 場所はリディアの調合室だ。
 キャサリンがエマを連れてリディアのもとを訪ねる。
 リディアは調合の作業をしながら、キャサリンの問いに答える。
 そういう形が自然と出来上がっていた。
 キャサリンは薬の専門知識を持っていない。
 調合の手順も、薬草の性質も、ほとんど何もわからない。
 それはリディアも、すぐに気がついた。

「……あなたは、薬のことをご存じないのですね」
「ええ、まったく」

 あっさりとキャサリンは認める。

「では、なぜここに?」
「話し相手になるためでしょうね」

 リディアが少し不思議そうな顔をした。

「話し相手……?」
「研究というのは、1人でやっていると煮詰まることがあるものでしょう? 外から問いを投げてくれる人間がいると、思考が整理されることがある。私はその役を買って出ているだけです」

 リディアはしばらくキャサリンを見つめ、そして小さく笑った。
 初めて見る、力の抜けた笑顔だった。

「……変わった方ですね、やはり」
「よく言われます」

 キャサリンが涼しく返す。
 エマも入り口で、笑いを堪えるように目を伏せていた。



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 3日目の朝のことだった。
 リディアが調合の手を動かしながら、ぽつりと言った。

「やっぱりわからないんです」
「……?」
「副作用の原因が。干渉している成分は絞り込めているはずなのに、再現性が取れない。同じ条件で試しても、出る場合と出ない場合がある」

 キャサリンは机の端に腰かけながら、リディアの手元を見た。
 薬草が丁寧に並べられている。
 試験管の列。
 細かい数字が並んだ手帳。
 7年分の積み重ねが、この小さな部屋に凝縮されていた。
 キャサリンが、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「再現性が取れない、ということは……。条件を同じにしているつもりでも、何か見落としている変数があるということ?」

「そのはずです。でも、それが何なのか……」

 リディアが手を止めて、手帳を見つめた。

「成分の配合は確認しました。温度も、乾燥の度合いも。思いつく限りの条件は全部試したはずなんですが……」

 キャサリンはしばらく黙っていた。
 薬の知識はない。
 でも、問いを立てることはできる。

「ひとつ聞かせてください」
「はい」
「副作用が出た場合と出なかった場合で、患者の側に違いはありますか」

 リディアが、顔を上げた。

「患者の側……」
「薬の調合だけでなく、受け取る側の条件も変数になり得るかと思って。例えば、年齢とか、体格とか……あるいは、体調とか」

 リディアの動きが止まる。

「……体調」

 キャサリンも言葉を止め、静かにリディアを見守った。
 リディアが素早く手帳をめくっていく。
 その目がすさまじい勢いで、ページの上を走る。

「副作用が出た記録……出なかった記録……患者の状態……」

 独り言が小さく漏れていた。
 まもなく、リディアがあるページで手を止める。

「……あ」
「どうしましたか」

 キャサリンが静かに問いかける。

「副作用が出た患者全員に共通することがあります。……薬を処方する順番が、本来のものと微妙に違っていました」

 そのせいで中和できるはずの成分が、うまく中和できていなかったのだ。
 立ち上がりかけたリディアが、はっとしてキャサリンを見る。

「あなたが患者の側を見ろと言ったから……」
「私は問いを投げただけですわ」

 キャサリンが静かに首を振る。

「答えを見つけたのは、あなたですよ」

 リディアが少しだけ目を細める。感謝とも、照れとも取れるあいまいな表情だった。

「……でも、1人では気づかなかったかもしれません」
「そうかもしれませんね」

 ――リディア嬢はすでに薬を完成させていた。でも、正しい投与がなされなかった。

 きっと平民の出だからと、侮られたのだろう。
 自力で気がつくのは不可能に近い。
 ミスしているのは自分ではなく、相手なのだから。

「でも、私の問いは、きっかけにすぎませんわ」

 リディアが少しの間キャサリンのことを見つめる。

「……やります」

 その声に迷いはない。

「だれがやっても間違えない完成版を作ります。必ず間に合わせます」
「信じています」


 キャサリンは力強くうなずいた。



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 その日の夕方、リディアは1人で調合室に残った。
 ランプの炎がいつもと同じように揺れている。
 薬草の束。
 試験管の列。
 びっしりと書き込まれた手帳。
 この部屋の景色は、何も変わっていない。
 変わったのは、リディアの中にあるものだけだ。

「……やってやる」

 独り言が部屋にこだました。
 手帳を開き、これまでの記録をすべて見直す。
 投与の順番。
 成分の配合。
 副作用が出た患者ごとの条件。
 全部ここにある。
 答えは最初から、この手の中にあったのだ。
 リディアは調合を始めた。
 迷いのない手つきで薬草を取り、丁寧に状態を確かめる。
 乾燥の具合。
 香り。
 葉の張り。
 一つひとつの動作が、いつもより少しだけ確かな感触を持っていた。

「投与の順番が鍵だった……」

 成分そのものではなく、体内に届く順番の問題だ。
 これが正しく守られれば、中和はきちんと機能する。
 だれがやっても間違えない処方の書き方をしないといけない。
 それがリディアの次の仕事だった。
 手を動かしながら、頭の中でカイムの顔が浮かぶ。
 青白い頬。
 それでも力強く輝く目。

『リディア姉ちゃんのほうが死にそうな顔しているぜ?』

 あの笑顔が、胸に刺さった。

「もうちょっとだから」

 だれにともなく、リディアはつぶやく。
 窓の外はとっくに夜だ。
 通りを行き交う人の声も、いつの間にか絶えている。
 それでもリディアは机を離れなかった。
 夜が更けるにつれて、処方の輪郭がはっきりしていく。
 試して確かめる。
 記録を取る。
 また試す。
 その繰り返し。
 だが今夜は、その一つひとつに確かな手応えを感じた。

「これで合っている」

 確信が、静かに積み重なっていく。
 夜明け前、リディアはペンを置いた。

「……できた」

 声に出すと、不思議なほど静かな気持ちだった。
 もっと大きな感情が来るかと思っていたが、そうではなかった。
 完成した処方の記録が、手帳の新しいページに書かれている。
 綺麗な文字だ。
 それはどの順番で投与しても、体内での成分の染み出し方によって、結果的にリディアの指定したとおりに戻される。

 間違えようのないものだった。

「カイム……ようやくできたよ」

 窓の外が、少しずつ白んでいる。
 王都の夜明けだ。
 リディアはしばらく、その光をぼんやりと眺めた。
 7年分の夜が、1枚ずつ剥がれていくような気がした。