数日後、リディアが屋敷を訪ねて来た。
約束していたわけではない。
だが、キャサリンにはそろそろ来るだろうという予感があった。
「自分の目で確かめてきました」
応接室に通すと、リディアは椅子に座るなり、まっすぐにキャサリンを見た。
その目には、数日前とは違う色があった。
困惑でも、悲しみでもない。
静かな怒りだ。
「本当でした」
短い言葉だ。
しかしその重さは、十分にキャサリンにも伝わった。
「ヴィクターが申請の準備を進めていること。セリーヌ嬢がヴィクターの周りで動いていること。そして……私が『待ってほしい』と言ったことを、ヴィクターが軽く見ていること」
「そうですか」
キャサリンは小さなあいづちを打つ。
余計なことは言わない。
今のリディアに必要なのは同情ではないはずだ。
リディアが顔を上げる。
「それで、私はどうすればいいでしょうか?」
その質問は、弱さから来るものではなかった。
次に進む準備ができているからこそのものだ。
「まずは薬を完成させましょう。あなたにならもう、それができるはずです」
リディアがわずかに目を見開いた。
✿✿✿❀✿✿✿
その日から2人の作業ははじまっていた。
場所はリディアの調合室だ。
キャサリンがエマを連れてリディアのもとを訪ねる。
リディアは調合の作業をしながら、キャサリンの問いに答える。
そういう形が自然と出来上がっていた。
キャサリンは薬の専門知識を持っていない。
調合の手順も、薬草の性質も、ほとんど何もわからない。
それはリディアも、すぐに気がついた。
「……あなたは、薬のことをご存じないのですね」
「ええ、まったく」
あっさりとキャサリンは認める。
「では、なぜここに?」
「話し相手になるためでしょうね」
リディアが少し不思議そうな顔をした。
「話し相手……?」
「研究というのは、1人でやっていると煮詰まることがあるものでしょう? 外から問いを投げてくれる人間がいると、思考が整理されることがある。私はその役を買って出ているだけです」
リディアはしばらくキャサリンを見つめ、そして小さく笑った。
初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
「……変わった方ですね、やはり」
「よく言われます」
キャサリンが涼しく返す。
エマも入り口で、笑いを堪えるように目を伏せていた。
✿✿✿❀✿✿✿
3日目の朝のことだった。
リディアが調合の手を動かしながら、ぽつりと言った。
「やっぱりわからないんです」
「……?」
「副作用の原因が。干渉している成分は絞り込めているはずなのに、再現性が取れない。同じ条件で試しても、出る場合と出ない場合がある」
キャサリンは机の端に腰かけながら、リディアの手元を見た。
薬草が丁寧に並べられている。
試験管の列。
細かい数字が並んだ手帳。
7年分の積み重ねが、この小さな部屋に凝縮されていた。
キャサリンが、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「再現性が取れない、ということは……。条件を同じにしているつもりでも、何か見落としている変数があるということ?」
「そのはずです。でも、それが何なのか……」
リディアが手を止めて、手帳を見つめた。
「成分の配合は確認しました。温度も、乾燥の度合いも。思いつく限りの条件は全部試したはずなんですが……」
キャサリンはしばらく黙っていた。
薬の知識はない。
でも、問いを立てることはできる。
「ひとつ聞かせてください」
「はい」
「副作用が出た場合と出なかった場合で、患者の側に違いはありますか」
リディアが、顔を上げた。
「患者の側……」
「薬の調合だけでなく、受け取る側の条件も変数になり得るかと思って。例えば、年齢とか、体格とか……あるいは、体調とか」
リディアの動きが止まる。
「……体調」
キャサリンも言葉を止め、静かにリディアを見守った。
リディアが素早く手帳をめくっていく。
その目がすさまじい勢いで、ページの上を走る。
「副作用が出た記録……出なかった記録……患者の状態……」
独り言が小さく漏れていた。
まもなく、リディアがあるページで手を止める。
「……あ」
「どうしましたか」
キャサリンが静かに問いかける。
「副作用が出た患者全員に共通することがあります。……薬を処方する順番が、本来のものと微妙に違っていました」
そのせいで中和できるはずの成分が、うまく中和できていなかったのだ。
立ち上がりかけたリディアが、はっとしてキャサリンを見る。
「あなたが患者の側を見ろと言ったから……」
「私は問いを投げただけですわ」
キャサリンが静かに首を振る。
「答えを見つけたのは、あなたですよ」
リディアが少しだけ目を細める。感謝とも、照れとも取れるあいまいな表情だった。
「……でも、1人では気づかなかったかもしれません」
「そうかもしれませんね」
――リディア嬢はすでに薬を完成させていた。でも、正しい投与がなされなかった。
きっと平民の出だからと、侮られたのだろう。
自力で気がつくのは不可能に近い。
ミスしているのは自分ではなく、相手なのだから。
「でも、私の問いは、きっかけにすぎませんわ」
リディアが少しの間キャサリンのことを見つめる。
「……やります」
その声に迷いはない。
「だれがやっても間違えない完成版を作ります。必ず間に合わせます」
「信じています」
キャサリンは力強くうなずいた。
✿✿✿❀✿✿✿
その日の夕方、リディアは1人で調合室に残った。
ランプの炎がいつもと同じように揺れている。
薬草の束。
試験管の列。
びっしりと書き込まれた手帳。
この部屋の景色は、何も変わっていない。
変わったのは、リディアの中にあるものだけだ。
「……やってやる」
独り言が部屋にこだました。
手帳を開き、これまでの記録をすべて見直す。
投与の順番。
成分の配合。
副作用が出た患者ごとの条件。
全部ここにある。
答えは最初から、この手の中にあったのだ。
リディアは調合を始めた。
迷いのない手つきで薬草を取り、丁寧に状態を確かめる。
乾燥の具合。
香り。
葉の張り。
一つひとつの動作が、いつもより少しだけ確かな感触を持っていた。
「投与の順番が鍵だった……」
成分そのものではなく、体内に届く順番の問題だ。
これが正しく守られれば、中和はきちんと機能する。
だれがやっても間違えない処方の書き方をしないといけない。
それがリディアの次の仕事だった。
手を動かしながら、頭の中でカイムの顔が浮かぶ。
青白い頬。
それでも力強く輝く目。
『リディア姉ちゃんのほうが死にそうな顔しているぜ?』
あの笑顔が、胸に刺さった。
「もうちょっとだから」
だれにともなく、リディアはつぶやく。
窓の外はとっくに夜だ。
通りを行き交う人の声も、いつの間にか絶えている。
それでもリディアは机を離れなかった。
夜が更けるにつれて、処方の輪郭がはっきりしていく。
試して確かめる。
記録を取る。
また試す。
その繰り返し。
だが今夜は、その一つひとつに確かな手応えを感じた。
「これで合っている」
確信が、静かに積み重なっていく。
夜明け前、リディアはペンを置いた。
「……できた」
声に出すと、不思議なほど静かな気持ちだった。
もっと大きな感情が来るかと思っていたが、そうではなかった。
完成した処方の記録が、手帳の新しいページに書かれている。
綺麗な文字だ。
それはどの順番で投与しても、体内での成分の染み出し方によって、結果的にリディアの指定したとおりに戻される。
間違えようのないものだった。
「カイム……ようやくできたよ」
窓の外が、少しずつ白んでいる。
王都の夜明けだ。
リディアはしばらく、その光をぼんやりと眺めた。
7年分の夜が、1枚ずつ剥がれていくような気がした。
約束していたわけではない。
だが、キャサリンにはそろそろ来るだろうという予感があった。
「自分の目で確かめてきました」
応接室に通すと、リディアは椅子に座るなり、まっすぐにキャサリンを見た。
その目には、数日前とは違う色があった。
困惑でも、悲しみでもない。
静かな怒りだ。
「本当でした」
短い言葉だ。
しかしその重さは、十分にキャサリンにも伝わった。
「ヴィクターが申請の準備を進めていること。セリーヌ嬢がヴィクターの周りで動いていること。そして……私が『待ってほしい』と言ったことを、ヴィクターが軽く見ていること」
「そうですか」
キャサリンは小さなあいづちを打つ。
余計なことは言わない。
今のリディアに必要なのは同情ではないはずだ。
リディアが顔を上げる。
「それで、私はどうすればいいでしょうか?」
その質問は、弱さから来るものではなかった。
次に進む準備ができているからこそのものだ。
「まずは薬を完成させましょう。あなたにならもう、それができるはずです」
リディアがわずかに目を見開いた。
✿✿✿❀✿✿✿
その日から2人の作業ははじまっていた。
場所はリディアの調合室だ。
キャサリンがエマを連れてリディアのもとを訪ねる。
リディアは調合の作業をしながら、キャサリンの問いに答える。
そういう形が自然と出来上がっていた。
キャサリンは薬の専門知識を持っていない。
調合の手順も、薬草の性質も、ほとんど何もわからない。
それはリディアも、すぐに気がついた。
「……あなたは、薬のことをご存じないのですね」
「ええ、まったく」
あっさりとキャサリンは認める。
「では、なぜここに?」
「話し相手になるためでしょうね」
リディアが少し不思議そうな顔をした。
「話し相手……?」
「研究というのは、1人でやっていると煮詰まることがあるものでしょう? 外から問いを投げてくれる人間がいると、思考が整理されることがある。私はその役を買って出ているだけです」
リディアはしばらくキャサリンを見つめ、そして小さく笑った。
初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
「……変わった方ですね、やはり」
「よく言われます」
キャサリンが涼しく返す。
エマも入り口で、笑いを堪えるように目を伏せていた。
✿✿✿❀✿✿✿
3日目の朝のことだった。
リディアが調合の手を動かしながら、ぽつりと言った。
「やっぱりわからないんです」
「……?」
「副作用の原因が。干渉している成分は絞り込めているはずなのに、再現性が取れない。同じ条件で試しても、出る場合と出ない場合がある」
キャサリンは机の端に腰かけながら、リディアの手元を見た。
薬草が丁寧に並べられている。
試験管の列。
細かい数字が並んだ手帳。
7年分の積み重ねが、この小さな部屋に凝縮されていた。
キャサリンが、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「再現性が取れない、ということは……。条件を同じにしているつもりでも、何か見落としている変数があるということ?」
「そのはずです。でも、それが何なのか……」
リディアが手を止めて、手帳を見つめた。
「成分の配合は確認しました。温度も、乾燥の度合いも。思いつく限りの条件は全部試したはずなんですが……」
キャサリンはしばらく黙っていた。
薬の知識はない。
でも、問いを立てることはできる。
「ひとつ聞かせてください」
「はい」
「副作用が出た場合と出なかった場合で、患者の側に違いはありますか」
リディアが、顔を上げた。
「患者の側……」
「薬の調合だけでなく、受け取る側の条件も変数になり得るかと思って。例えば、年齢とか、体格とか……あるいは、体調とか」
リディアの動きが止まる。
「……体調」
キャサリンも言葉を止め、静かにリディアを見守った。
リディアが素早く手帳をめくっていく。
その目がすさまじい勢いで、ページの上を走る。
「副作用が出た記録……出なかった記録……患者の状態……」
独り言が小さく漏れていた。
まもなく、リディアがあるページで手を止める。
「……あ」
「どうしましたか」
キャサリンが静かに問いかける。
「副作用が出た患者全員に共通することがあります。……薬を処方する順番が、本来のものと微妙に違っていました」
そのせいで中和できるはずの成分が、うまく中和できていなかったのだ。
立ち上がりかけたリディアが、はっとしてキャサリンを見る。
「あなたが患者の側を見ろと言ったから……」
「私は問いを投げただけですわ」
キャサリンが静かに首を振る。
「答えを見つけたのは、あなたですよ」
リディアが少しだけ目を細める。感謝とも、照れとも取れるあいまいな表情だった。
「……でも、1人では気づかなかったかもしれません」
「そうかもしれませんね」
――リディア嬢はすでに薬を完成させていた。でも、正しい投与がなされなかった。
きっと平民の出だからと、侮られたのだろう。
自力で気がつくのは不可能に近い。
ミスしているのは自分ではなく、相手なのだから。
「でも、私の問いは、きっかけにすぎませんわ」
リディアが少しの間キャサリンのことを見つめる。
「……やります」
その声に迷いはない。
「だれがやっても間違えない完成版を作ります。必ず間に合わせます」
「信じています」
キャサリンは力強くうなずいた。
✿✿✿❀✿✿✿
その日の夕方、リディアは1人で調合室に残った。
ランプの炎がいつもと同じように揺れている。
薬草の束。
試験管の列。
びっしりと書き込まれた手帳。
この部屋の景色は、何も変わっていない。
変わったのは、リディアの中にあるものだけだ。
「……やってやる」
独り言が部屋にこだました。
手帳を開き、これまでの記録をすべて見直す。
投与の順番。
成分の配合。
副作用が出た患者ごとの条件。
全部ここにある。
答えは最初から、この手の中にあったのだ。
リディアは調合を始めた。
迷いのない手つきで薬草を取り、丁寧に状態を確かめる。
乾燥の具合。
香り。
葉の張り。
一つひとつの動作が、いつもより少しだけ確かな感触を持っていた。
「投与の順番が鍵だった……」
成分そのものではなく、体内に届く順番の問題だ。
これが正しく守られれば、中和はきちんと機能する。
だれがやっても間違えない処方の書き方をしないといけない。
それがリディアの次の仕事だった。
手を動かしながら、頭の中でカイムの顔が浮かぶ。
青白い頬。
それでも力強く輝く目。
『リディア姉ちゃんのほうが死にそうな顔しているぜ?』
あの笑顔が、胸に刺さった。
「もうちょっとだから」
だれにともなく、リディアはつぶやく。
窓の外はとっくに夜だ。
通りを行き交う人の声も、いつの間にか絶えている。
それでもリディアは机を離れなかった。
夜が更けるにつれて、処方の輪郭がはっきりしていく。
試して確かめる。
記録を取る。
また試す。
その繰り返し。
だが今夜は、その一つひとつに確かな手応えを感じた。
「これで合っている」
確信が、静かに積み重なっていく。
夜明け前、リディアはペンを置いた。
「……できた」
声に出すと、不思議なほど静かな気持ちだった。
もっと大きな感情が来るかと思っていたが、そうではなかった。
完成した処方の記録が、手帳の新しいページに書かれている。
綺麗な文字だ。
それはどの順番で投与しても、体内での成分の染み出し方によって、結果的にリディアの指定したとおりに戻される。
間違えようのないものだった。
「カイム……ようやくできたよ」
窓の外が、少しずつ白んでいる。
王都の夜明けだ。
リディアはしばらく、その光をぼんやりと眺めた。
7年分の夜が、1枚ずつ剥がれていくような気がした。

