タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 ヴィクターが動いたのは、それから10日後のことだった。
 リディアへの相談もなく、未完成の処方を完成品として王宮に申請した。
 名義はランドール家。
 内容はリディアが7年かけて積み上げて来た研究の成果だった。

「……」

 ただし、副作用の問題は解消されていない。
 ヴィクターには、悪いことをしているという自覚がこれっぽっちもなかった。
 妻の功績は夫のものでもある。
 それを信じて疑ったことは一度としてない。
 申請を急いだのは、早く薬を届けたかったからにすぎなかった。副作用のことも、リディアの気にしすぎだと思っていた。

 根拠はない。
 無自覚な悪意だ。
 ただ、そう思っていた。

「上出来ね」

 その報告を聞いたセリーヌは満足げに微笑んだ。
 ヴィクターの屋敷を辞したあと、馬車で1人になった瞬間だけ、その笑みが少しだけ違う色を帯びた。
 思ったよりも、ずっと簡単だった。
 残りの手順は、すでに頭の中にある。
 証拠書類の改竄。
 偽証言の準備。
 リディアを「横取りしようとした詐欺師」に仕立て上げるために、細かい仕込みを用意してある。

「忙しくなるわね」

 やることは多いが、難しくはない。
 相手は所詮、平民の薬師だ。
 後ろ盾もなく、社交界での地盤もない。
 ひとたび貴族の証言と書類が出れば、言葉一つも覆せはしないだろう。
 セリーヌは馬車から外を見つめながら、段取りを頭の中で組み立てていった。
 焦る必要ないのだ。
 落ち着いてやれば、必ずうまいく。

「あの薬師さえいなければいいのよ」

 いつかと同じ台詞を、リディアはくり返した。



✿✿✿❀✿✿✿



 リディアが申請のことを知ったのは、偶然だった。
 王宮に出入りする薬師仲間から、何気なく話が耳に入って来たのだ。

「そういえば、リディア。ランドール家が新薬の申請を出したっていうけど、あれってあなたの研究じゃなかった?」

 言葉が胸に刺さる。

「いつの話ですか?」
「先週だったかしらね。……もう受理されて、時間が経つはずだけど」

 しばらく、声が出なかった。
 ヴィクターが「わかった」と言ったのは、まだ記憶に新しい。
 待ってほしいとも言った。
 副作用が残っているから、処方は早計だと。

「そう……ですか」
 どうにかそれだけ答える。
 薬師仲間が何か言っていたようだが、よく聞こえなかった。
 頭の中では、ヴィクターの声が反響している。

『わかった』

 それは穏やかで、迷いのない声だった。
 いったい、ヴィクターは何にわかったと言っていたのだろう。



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 リディアはその夜、調合室に1人で座っていた。
 机の上には、まだ完成していない処方の記録が広げられている。

「……どうして」

 声にならない問いが、暗い部屋に溶けた。
 怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、胸の奥に重たいものがある。
 ヴィクターに悪意がなかったと信じたいが、今ではそれもどうなのか怪しい。

「……」

 きっとヴィクターは、良かれと思ってやっただけなのだろう。
 そう信じたい。
 少なくとも、薬を早く届けたかったことだけは本当だろう。
 だが、もしも症状の重たい子供に使われてしまったら……。
 誰が責任を取るのだろうか。
 そもそも、責任なんか取れるのだろうか。
 命を奪いかねないリスクがまだ残ったままだというのに。

「……はあ」

 リディアは自分の手のひらを見つめた。
 7年分の、薬草の染みが残っている手だ。
 このままではいけない。
 そこははっきりとわかっているのだが、どうすればいいのかという手段を、リディアには見つけられなかった。