タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 炎がゆらゆらと揺れていた。
 小さなランプの炎が、夜の調合室にぼんやりと光をたたえている。
 窓の外はとっくに夜だ。
 通りを行き交う人の声も、いつの間にか絶えている。
 それでもリディアは机を離れなかった。

「……ふわあ」

 小さなあくびをした直後に、眠っちゃダメだと言わんばかりに自分の頬を軽く叩く。
 薬草の束を手に取り、葉の状態を確かめた。
 指先で茎をなぞり、乾燥の具合を見る。
 鼻を近づけて、香りを嗅いだ。
 ほんのわずかにリディアの眉が寄った。

「まだ違うか……」

 独り言が、静かな部屋をこだまする。
 リディアは薬草をそっと置き、手帳に文字を書きつける。今日試みた調合の記録。失敗の理由。次に試すべき仮説となるアイデア。

 手帳はもうずいぶん前から、失敗の記録で埋まっていた。
 それでもリディアはためらいなくペンを走らせる。
 リディア・ウルペッカ。
 王都でも名の知れた薬師だ。
 平民の出でありながら、その腕を買われ、侯爵家の御曹司との婚約までも取りつけた。
 社交界では異例の出世などと、好奇心混じりの噂を囁かれることもある。
 リディアにとって、そういった評判は少しも重要ではない。
 リディアの関心はただ一つ。

「早くあの子たちに、薬を届けないといけないのに……」

 目を閉じれると、子供たちの顔が浮かぶ。
 王都の外れにある小さな診療所で、ベッドに拘束されているようにして横たわっている子供たち。
 熱で赤く染まった頬。
 苦しそうに上下する小さな胸。
 体中にできてしまった緑色の斑点。
 それでも笑ってみせようと、自分に向けられた健気な瞳が頭に焼きついて離れない。
 リディアが薬師を志したのは、その日からだった。
 たまたま目にした難病。
 魔力循環の乱れによって引き起こされる慢性の病気で、子どもに多い。
 既存の薬では、対症療法が限度で根治させるのは不可能だった。
 それならば自分で作ってみせる。
 そう決意したのが7年前。

「……もう7年か。ごめんね……無力で」

 この病気は体力を奪う。
 子供に長期の闘病は難しい。
 あまり考えたくはないが、この7年の間に衰弱してもう会えなくなってしまった子も、少なくはないだろう。

 それを思うと、ひどく胸が痛んだ。

「眠っている場合じゃないでしょ、リディア」

 自分に言い聞かせて、また手帳に目を落とす。
 長い時間をかけて来た。
 笑われたことも、諦めるよう言われたことも、一度や二度ではない。

『薬師風情に新薬など開発できるものか』
『素人が手を出す領域ではない、大人しく調合だけしていろ』
『そもそも貧しい子に多い病気だぞ。だれが薬の代金を払うんだ?』

 そういった心ない言葉が、矢のように飛んできた時期もあった。
 腹が立ったし、悔しかった。
 なによりも、平気で他人の命を軽視する姿勢が、どうしてもリディアには許せなかった。
 眠れない夜を過ごしたこともある。
 それでも諦めなかったのは、あの子たちの顔を忘れたことがないからだ。
 すがることさえせず、むしろ見ているだけの自分のほうが病人なのではないかと、彼らの視線が必死にリディアを癒そうとしていた。

 絶対に、諦めてはいけない。
 軋む音を立てて、調合室の扉が開く。

「リディア、まだやっていたのか?」

 低く、少し眠そうな声。
 振り返ると、婚約者のヴィクターが扉口に立っていた。
 侯爵家の嫡男らしい、端整な顔立ち。
 上等な夜着を羽織り、こちらを少し呆れたように見ている。

「ごめん、ヴィクター。起こしちゃった?」
「いいや、目が覚めただけだ」

 ヴィクターは部屋に入って来ると、リディアの隣に立った。
 机の上に広げられた薬草と手帳に視線を落とす。

「相変わらず熱心だな。あの薬の進捗はどうだ?」

 言葉とは裏腹に、リディアの大それた目標に関心があるようには見えない。

「もう少し……かな」

 正直に答えた。
 嘘をつく必要はないし、ヴィクターに隠し事をするつもりもない。

「副作用の問題がまだ解消できていなくて。もう少し時間がかかりそうなの」
「副作用?」

 ヴィクターが眉を上げて尋ねる。

「そうなの……」
「だが、別に大した問題ではないのだろう? すぐに解決できるさ」
「どうだろう……。そう簡単でもなさそうかな」

 体力の少ない子供に与えてしまったら、むしろ命を奪いかねない。
 非常に危険なものだ。
 リディアが続けようとすると、ヴィクターがふわりと笑った。
 柔らかな、悪気のない笑みだった。

「リディアは心配性だな。まあ、完成したら教えてくれ。あの薬が王宮に認められれば、ランドール家にとっても誇りになる。俺も楽しみにしているよ」

 それだけ言って、ヴィクターは踵を返す。
 扉が閉まる音がして、次いで、また部屋が静寂が取り戻す。
 リディアはしばらく閉じられた扉を、じっと眺めていた。

「……。……ランドール家の誇りか」

 くり返してみた言葉は、なんとなく口の中に馴染まなかった。
 ヴィクターに他意がないことは、わかっている。
 深い意味はないのだろう。
 純粋にリディアのことを誇りに思ってくれているだけだ。婚約者として、当たり前の応援をしてくれているだけ。

 きっと自分が気にしすぎているのだ。

「……」

 それでも、胸のどこかに、小さな棘が刺さったような感覚が取れない。

「気のせい……よね」

 リディアは小さく首を横に振って、また机に向かった。
 考えるべきことは、山ほどある。
 今夜中に試すつもりだった調合が、まだいくつか残っていた。
 ランプの炎が、また静かに揺れる。
 窓の外で、風が鳴った。
 リディアの夜はまだ長い。



✿✿✿❀✿✿✿



 翌朝、リディアは診療所に寄っていた。
 ほとんど徹夜に近い。
 顔なじみの医師に挨拶をして、入院中の子どもたちの様子を確認する。これが、彼女の毎朝の習慣だった。

「リディア姉ちゃん、今日も来たんだ」

 少年がベッドの上で顔を横に向けた。
 年は8つか9つほどだろう。
 青白い顔に、目元だけが力強く光を放っている。病気になんて負けてやるもんかという、不屈の意思を感じさせた。

「具合はどう?」
「昨日よりはマシ。まだ、発作もないし」

 少年の声は明るかったが、発作という単語を使うときだけは、やはり緊張したように声が揺れていた。

 リディアは椅子を引いて、少年の目線に合わせるようにしゃがむ。

「大丈夫。私が必ず薬を作るから」

 はっきりと、言い切った。
 少年が目を丸くし、次いで、にししと笑う。

「俺は自力で治すからな。薬ができたら、ほかの子にやってよ。それに、リディア姉ちゃんのほうが死にそうな顔しているぜ?」

「また君はそんなことばっかり言って」

 薬師が他人を心配させてどうるんだと、リディアは胸中で自分を戒める。
 それと同時に、改めて新薬を開発することを誓った。
 診療所をあとにしたリディアの足取りは、行きよりも少しだけ速い。

「……まぶしい」

 空は高く晴れている。
 朝の空気は澄んでいて、薬草の青い香りをどこかに含んでいる気がした。
 そこにきっと探している答えがある。