タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 お嬢様が就寝したあとの屋敷は、しんと静まり返っていた。
 私は1人、執務室の片隅で書類を整理する。
 蝋燭の明かりは、紙の上に細い影を落としていた。
 手は動かしているが、頭の中ではまだ今日のことが引っかかる。

「侍女から情報が漏れる……ですか」

 お嬢様はそう読んでいた。
 読んでいたからこそ、逆に利用した。
 結果として、計画は次の段階へと進んでいる。
 失敗ではない。
 むしろ、喜ばしいことだ。
 それはわかっている。
 わかっているが、私の胸の奥には小さな棘が刺さったままだった。
 侍女が情報を漏らす。
 他人事ではない。
 ソフィア様の侍女が悪意を持っていたわけでもないだろう。
 ただ、世間話の中でうっかりと口を滑らせただけだ。
 あるいは、巧みに引き出された。
 真実はどちらでもいい。
 問題なのは、それが主人の足を引っ張りかねないということだ。

「……。同じことをしないとは言い切れませんね」

 私はペンを止める。
 自分でどれほど注意を払っていても、気づかないうちに何かを漏らしている可能性はある。
 それは慢心ではなく、事実として受け入れなければならないことだった。
 お嬢様は今回、その穴を塞ぐのではなく利用するという手を選んだ。
 しかし、いつもそれができるとは限らないだろう。
 内側に穴があれば、いつか取り返しのつかない形で開くこともある。

「気を引き締めないといけませんね」

 私はそう思いながら、再びペンを取った。



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 お嬢様が変わったのは、あの朝からだ。
 まるで、地獄の淵から戻って来たように、それからのお嬢様は苛烈を極めた。
 もちろん、実際に地獄に行ったわけではないだろう。
 その前の晩も、すやすやとお休みになっていたのだから。
 しかし私には、そう表現するよりほかにない。
 あの朝のお嬢様は、前夜と別人のように目の色が違った。
 眠れなかった様子もなく、取り乱した形跡もない。
 ただ、静かに、何かを決めた人間の顔をして座っていた。
 最初は私の気のせいかとも思った。
 次の日も、またその次の日も、お嬢様の判断は迷いがなかった。
 動く前から答えを知っているかのように、先手を打ち続けた。
 証拠を集めた。
 罠を仕掛けた。
 舞踏会の場で、完璧に反撃した。
 私はずっと、それを問わずにいた。
 問えなかったのではない。
 問うつもりがなかったのだ。
 お嬢様に何があったのかは、わからない。
 しかし、向かおうとしている方向は見えていた。
 それで十分だと、私も思っていた。
 理由を知らなくとも、自分にできることはある。
 足場を作ること、情報を集めること。
 お嬢様が動ける状態を、常に整えておく。
 侍女の仕事とは、そういうものだと私は信じている。



✿✿✿❀✿✿✿



「……エマ?」

 声がした。
 顔を上げると、扉の隙間からお嬢様が顔をのぞかせていた。
 寝衣のまま、髪もほどいている。
 珍しいことだ。

「どうかされましたか?」
「眠れなくて」

 それだけ言って、お嬢様は部屋に入ってきた。
 椅子を引いて、お嬢様が私の向かいに腰を下ろす。
 私は何も言わずに立ち上がり、小鍋で温めていたミルクをカップに注いだ。
 受け取ったお嬢様が、両手でカップを包む。
 しばらく、私たちは黙っていた。
 蝋燭の炎が、かすかに揺れている。

「……今回は読み違えたわ」

 お嬢様がぽつりと言った。

「ドリアンが侍女まで取り込んでいることは、初回から想定できたはずなのに……」

 初回から?
 お嬢様は最初から侍女から漏れることを懸念していたはずだ。
 何を仰っているのか、私にはよくわからない。
 だからこそ、私は静かに遮った。

「お嬢様、もう十分ではないでしょうか」

 お嬢様が私を見る。
 私は表情を変えずに続けた。

「今回の件で、私も学んだことがあります。どれほど注意を払っていても、内側に穴は生まれうる。それならば穴を恐れるのではなく、穴があることを前提に動けるようになればいい。……お嬢様はすでに、そうなさっていました」

 お嬢様がわずかに目を細めた。

「あなた、いつもそうやってさらりと正論を言うのね」
「お嬢様のそばで学んでおりますので」

 短い沈黙のあと、お嬢様が小さく息を吐いた。

「……あなたがいてくれてよかった」

 ぼそりと、独り言のような声だった。
 私は答えない。
 代わりに、静かに頭を下げた。
 お嬢様がカップを置いて立ち上がり、「おやすみ」とだけ言って部屋を出ていく。
 その背中が廊下の暗がりに消えるまで、私は見送った。
 一人に戻った部屋で、私は再び書類へ向きなおる。
 忠誠ならば、とうの昔から持っている。
 義務は、果たし続けてきた。
 しかし、それだけではない何かが、胸の中にあることに私は気づいていた。
 この方が次に何を見るのか。
 どこへ向かうのか。
 その先を、自分も見たいのだ。
 ただそれだけのことが、私をここに立たせている。そんな気がする。
 蝋燭の炎がまた揺れて、すぐに静かになる。。
 明日もやることは決まっていた。