ナターシャが自室で爪を磨いていると、ドアをノックする音がした。
家主でも隣人でもない、控えめだが芯のある叩き方だ。
「……。誰?」
「エルフェルト家の者です。少しお時間をいただけますか」
聞き覚えのない名前だった。
ナターシャは爪を磨くのをやめ、立ち上がった。
ドアを開けると、そこには地味な装いの中年の侍女が立っていた。
飾り気のない顔立ち。
しかし、その目だけが妙に落ち着いていた。
「エルフェルト家? 知らないね」
「存じなくて結構です。少しだけ、お話を」
押しつけがましくもなく、かといって引く気配もない。
ナターシャはしばらく値踏みするように眺めてから、ため息をついた。
「入りな」
二人向かい合って座る。
ナターシャは脚を組み、侍女――エマと名乗った――はきちんと背筋を伸ばして椅子に座っていた。
「単刀直入に申し上げます」
エマが口を開く。
「ドリアン・ベル子爵についてです」
ナターシャの手が、止まった。
しかしすぐに、何でもないように脚を組み替える。
「あの人がどうかしたの」
「子爵には、婚約者がいます」
「知っているさ」
さらりと答える。
エマは眉一つ動かさない。
「財産目当ての婚約であることも、ご存じですか?」
「……。さあてね」
今度は少しだけ間があった。
エマはそれを指摘しない。
ただ、静かに続けた。
「婚約者から持参金を受け取ったのち、理由をつけて離縁するつもりだったようです。その後は次の相手を探すと、本人の口から出た言葉です」
「ふうん」
ナターシャは窓の外に目をやった。
表情は動かない。
だが、その目はわずかに細くなっていた。
「それで? あんたは何が聞きたいの」
「一つだけ確認させてください」
エマが静かに問い返す。
「あなたへの約束は、何でしたか」
沈黙が落ちた。
ナターシャは脚を組んだまま、天井を見上げた。
✿✿✿❀✿✿✿
ナターシャとドリアンの出会いは2年前のことだ。
社交の場でもなく、貴族の集まりでもない。
ちょっとした商家の集まりで、ドリアンはひどく場違いな男だった。
それでも笑顔が上手くて、話が面白くて、気前がよかった。
「君みたいな子は、こんなところにいるべきじゃないね」
最初にそう言われたとき、ナターシャは内心で鼻で笑った。
聞き飽きた口説き文句だ。
でも、その後でドリアンは続けた。
「もっといい場所を、一緒に探そう」
その一言だけが、少しだけ違った。
一緒に、という部分が入っていた。
頭ではわかっていた。
本気じゃない、たぶん。
こういう男の甘い言葉は、たいてい期限付きだ。
それでも、ナターシャは手を取った。
こちらにも打算があったから。
だから、対等だと思っていた。
お互い様だ。
もちろん、そこにもしかしたらという気持ちが全くなかったかと言えば、嘘になる。
✿✿✿❀✿✿✿
「約束ね……。……」
ナターシャがようやく口を開いた。
「婚約者の件が片付いたら、一緒になろうって言っていたかもしれないね」
「それを信じていましたか」
じろりとエマを見る。
「馬鹿にしてんの? 信じるわけがないでしょ」
エマが静かに続ける。
「では、信じたかったということはありましたか?」
ナターシャの口が閉じた。
開きかけて、また閉じる。
エマは急かさず、それをまっすぐ見つめていた。
ナターシャが視線を外す。
「……。一度くらい、本物だったらよかったとは思ったよ」
低い声だった。
自嘲でもなく、感傷でもない。
ただ事実として、そう言った。
「そうですか」
エマの声に、余分なものは何もなかった。
同情もなく、批判もない。
ただ受け取った、というだけの返事だった。
それがナターシャには、少しだけ心地よかった。
「それで、いったいなんの用さ?」
ナターシャが仕切り直すように言う。
「子爵に、直接会っていただきたいのです」
「は?」
「場所は植物園です。婚約者の方と、子爵が対面する場に同席してください」
ナターシャが眉を上げる。
「なんで私が?」
「あなたが一番、腹を立てる権利がある方だからです」
間髪入れず、エマが答えた。
ナターシャはしばらくエマを見ていた。
この侍女は変わっている。
慰めるでもなく、煽るでもなく、ただ淡々と正確なことだけを言う。
「……。仮に行ったとして、私は何をすればいい」
「思ったことを、そのままなさればよろしいかと」
「それだけ?」
「それだけです」
ナターシャはしばらく黙っていた。
窓の外では、通りを行き交う人々の声がくぐもって聞こえる。
いつもと変わらない午後だ。
なのに、今日だけは何かが違う気がした。
立ち上がる。
エマも静かに立った。
「わかったよ。行こうじゃないか」
理由なんて、たいしたことじゃない。
義憤でも正義感でもない。
ただ、きちんと自分の手で終わらせたかった。
それだけだ。
「……」
エマが一礼する。
2人で部屋を出て、通りを歩き始めた。
しばらく無言が続いて、ナターシャがふと口を開いた。
「あんたのお嬢様って、どんな人?」
エマが少しだけ間を置いた。
通りの向こうを見ながら、静かに答える。
「頼りになる方です」
それ以上は言わなかった。
ナターシャも、それ以上は聞かない。
ただ2人で、植物園へと続く道を歩いた。
家主でも隣人でもない、控えめだが芯のある叩き方だ。
「……。誰?」
「エルフェルト家の者です。少しお時間をいただけますか」
聞き覚えのない名前だった。
ナターシャは爪を磨くのをやめ、立ち上がった。
ドアを開けると、そこには地味な装いの中年の侍女が立っていた。
飾り気のない顔立ち。
しかし、その目だけが妙に落ち着いていた。
「エルフェルト家? 知らないね」
「存じなくて結構です。少しだけ、お話を」
押しつけがましくもなく、かといって引く気配もない。
ナターシャはしばらく値踏みするように眺めてから、ため息をついた。
「入りな」
二人向かい合って座る。
ナターシャは脚を組み、侍女――エマと名乗った――はきちんと背筋を伸ばして椅子に座っていた。
「単刀直入に申し上げます」
エマが口を開く。
「ドリアン・ベル子爵についてです」
ナターシャの手が、止まった。
しかしすぐに、何でもないように脚を組み替える。
「あの人がどうかしたの」
「子爵には、婚約者がいます」
「知っているさ」
さらりと答える。
エマは眉一つ動かさない。
「財産目当ての婚約であることも、ご存じですか?」
「……。さあてね」
今度は少しだけ間があった。
エマはそれを指摘しない。
ただ、静かに続けた。
「婚約者から持参金を受け取ったのち、理由をつけて離縁するつもりだったようです。その後は次の相手を探すと、本人の口から出た言葉です」
「ふうん」
ナターシャは窓の外に目をやった。
表情は動かない。
だが、その目はわずかに細くなっていた。
「それで? あんたは何が聞きたいの」
「一つだけ確認させてください」
エマが静かに問い返す。
「あなたへの約束は、何でしたか」
沈黙が落ちた。
ナターシャは脚を組んだまま、天井を見上げた。
✿✿✿❀✿✿✿
ナターシャとドリアンの出会いは2年前のことだ。
社交の場でもなく、貴族の集まりでもない。
ちょっとした商家の集まりで、ドリアンはひどく場違いな男だった。
それでも笑顔が上手くて、話が面白くて、気前がよかった。
「君みたいな子は、こんなところにいるべきじゃないね」
最初にそう言われたとき、ナターシャは内心で鼻で笑った。
聞き飽きた口説き文句だ。
でも、その後でドリアンは続けた。
「もっといい場所を、一緒に探そう」
その一言だけが、少しだけ違った。
一緒に、という部分が入っていた。
頭ではわかっていた。
本気じゃない、たぶん。
こういう男の甘い言葉は、たいてい期限付きだ。
それでも、ナターシャは手を取った。
こちらにも打算があったから。
だから、対等だと思っていた。
お互い様だ。
もちろん、そこにもしかしたらという気持ちが全くなかったかと言えば、嘘になる。
✿✿✿❀✿✿✿
「約束ね……。……」
ナターシャがようやく口を開いた。
「婚約者の件が片付いたら、一緒になろうって言っていたかもしれないね」
「それを信じていましたか」
じろりとエマを見る。
「馬鹿にしてんの? 信じるわけがないでしょ」
エマが静かに続ける。
「では、信じたかったということはありましたか?」
ナターシャの口が閉じた。
開きかけて、また閉じる。
エマは急かさず、それをまっすぐ見つめていた。
ナターシャが視線を外す。
「……。一度くらい、本物だったらよかったとは思ったよ」
低い声だった。
自嘲でもなく、感傷でもない。
ただ事実として、そう言った。
「そうですか」
エマの声に、余分なものは何もなかった。
同情もなく、批判もない。
ただ受け取った、というだけの返事だった。
それがナターシャには、少しだけ心地よかった。
「それで、いったいなんの用さ?」
ナターシャが仕切り直すように言う。
「子爵に、直接会っていただきたいのです」
「は?」
「場所は植物園です。婚約者の方と、子爵が対面する場に同席してください」
ナターシャが眉を上げる。
「なんで私が?」
「あなたが一番、腹を立てる権利がある方だからです」
間髪入れず、エマが答えた。
ナターシャはしばらくエマを見ていた。
この侍女は変わっている。
慰めるでもなく、煽るでもなく、ただ淡々と正確なことだけを言う。
「……。仮に行ったとして、私は何をすればいい」
「思ったことを、そのままなさればよろしいかと」
「それだけ?」
「それだけです」
ナターシャはしばらく黙っていた。
窓の外では、通りを行き交う人々の声がくぐもって聞こえる。
いつもと変わらない午後だ。
なのに、今日だけは何かが違う気がした。
立ち上がる。
エマも静かに立った。
「わかったよ。行こうじゃないか」
理由なんて、たいしたことじゃない。
義憤でも正義感でもない。
ただ、きちんと自分の手で終わらせたかった。
それだけだ。
「……」
エマが一礼する。
2人で部屋を出て、通りを歩き始めた。
しばらく無言が続いて、ナターシャがふと口を開いた。
「あんたのお嬢様って、どんな人?」
エマが少しだけ間を置いた。
通りの向こうを見ながら、静かに答える。
「頼りになる方です」
それ以上は言わなかった。
ナターシャも、それ以上は聞かない。
ただ2人で、植物園へと続く道を歩いた。

