タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 フィリップの新作は、静かな湖畔を描いた風景画だった。
 水面に映る木々の緑。
 差し込む光の柔らかさ。
 キャサリンは絵の専門家ではないが、それでも息を呑むほどの完成度であることが伝わって来る。

「本物ですわね」

 思わず口をついた言葉に、フィリップが困ったように目を細めた。

「今さら確認しなくていい」
「失礼しました」

 悪びれない謝罪を返してから、キャサリンはエマに目配せをする。

「お願い」
「はい」

 エマが小さな瓶を取り出す。
 中に入っているのは、一見すると普通の油だ。
 しかし特定の光の下に置くと、塗布した箇所に微細な紋様が浮かび上がる性質を持っている。
 調合に少々手間のかかる代物だったが、エマはすでに用意を済ませていた。

「これを絵の具に混ぜ込みます。表面上はまったく変わりません。しかし、この光を当てれば――」

 キャサリンが説明しながらエマに合図する。
 エマが手にした小さな魔道具から、細い光の筋を絵の端に向けた。
 かすかな紋様が浮かびあがる。

「なるほど。差し替えられたあとも、これが残る」
「そのとおりですわ。あとは伯爵が自分で勝手に動いてくれます」

 フィリップが一度だけ、自分の絵に視線を落とした。
 それから、静かに顎を引いた。

「……。頼む」



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 その後の1週間、エマは忙しく動いた。
 伯爵の周辺に出入りする人間への聞き込み。
 作品の受け渡しに関わった使用人からの証言。
 金の流れを示す記録。
 過去の被害者への密かな連絡と、証言の取りまとめ。
 グレアム伯爵は今回も変わらずに動いた。
 フィリップから預かった作品を、別人の名義で展覧会に出展する手配を粛々と進めていた。
 自分が罠の中にいることなど、露ほども疑っていないようだった。

「順調ですわね」

 エマから報告を受けながら、キャサリンが静かに言った。

「はい。当日までに証拠は揃います」
「ご苦労様」

 労ってから、キャサリンはふと窓の外に目をやった。
 いつもより木々が美しく見えた。



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 展覧会の前日。
 フィリップが三度、キャサリンの屋敷を訪ねてきた。

「……。……本当にうまくいくのだろうか」

 応接室に通したフィリップが、開口一番にそう言った。
 前回と同じ問いだ。
 しかし、今回は前回よりも声が低い。
 それは不安を露わにしているというよりも、覚悟を固めようとしている人間の声音に近かった。

「明日、会場で自分の絵が別人の名前で飾られているのを見るのは……正直、気分のいいものではないと思う」

「そうでしょうね」

 キャサリンは淡々とうなずく。
 その後、まっすぐにフィリップを見据えてから言葉をつづけた。

「問題なのは、あなたの絵が本物かどうか、それだけですわ。別人の名前で飾られたところで、本物は本物のままですから」

 フィリップが静かに息を吐く。

「……。そうだな。……そうかもしれない」

 それっきり、しばらくの間は沈黙が生まれた。
 決して、気まずくはない。
 それほど親しくもない2人の間に初めて生まれた、穏やかな時間だった。

「当日もよろしく頼む」
「お任せを」

 キャサリンが力強くうなずく。

 ――過去に戻るまでもない相手ですからね。

 失敗するわけがなかった。



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 展覧会当日。
 会場となった貴族の邸宅の大広間は、華やかな人々で埋め尽くされていた。
 クラリスとの立ち話を終えたキャサリンも、まもなく現場に到着する。
 絵画、彫刻、織物。
 所狭しと並んだ作品の前を、きらびやかな衣装の貴族たちが行き交っていた。
 その中心に、一枚の風景画がある。
 静かな湖畔。
 水面に映る木々の緑。
 差し込む光の柔らかさ。
 しかし、その傍らに立てられた名札には、やはりフィリップの名前がない。

「素晴らしい作品ですな」
「さすがグレアム伯爵。お目が高い」

 賞賛の声が飛び交う中、当の伯爵は満足げに腕を組んでいた。
 初老の、いかにも社交慣れした風貌の男性だ。
 愛想のいい笑みを浮かべながら、賛辞を受け流している。
 その光景を、キャサリンは少し離れた場所から眺めていた。

「……参りましょうか」

 エマが静かに言う。
 キャサリンも鷹揚にうなずいた。

「グレアム伯爵」

 キャサリンが歩み寄る。
 伯爵が振り返り、珍しい令嬢に一瞬だけ戸惑いを見せてから、すぐに愛想よく笑った。

「これはこれは……エルフェルト公爵家のご令嬢でしたか。わざわざのお越しを」
「ええ。素晴らしい展覧会ですわね」

 キャサリンが微笑む。
 その視線が、自然と風景画へと向いた。

「こちらの作品、特に気に入りましたわ」
「お目が高い。若手の画家ですが、なかなかの才能でしょう?」
「そうですわね……」

 ゆっくりと、キャサリンが絵に近づいてく。

「ところで伯爵、少々確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいですとも、なんなりと聞いてください」

 グレアムが気前良さそうに首肯する。

「こちらの作品は、どなたが描いたんですの?」
「そこに書いてありませんかな? ガザードです。私の甥なのですが……」
「本当に?」

 伯爵の表情が、かすかに固まる。

「……。何を仰りたいのですかな」
「そのままの意味ですわ」

 キャサリンがエマに目配せをする。
 エマが静かに前へ出て、小さな魔道具を取り出した。

「少し、光を当てさせていただきますね」

 細い光の筋が、絵の端に向けて当てられる。
 次の瞬間、そこに微細な紋様が浮かび上がった。
 そこにははっきりとフィリップ・エルフェルトの名前が刻まれている。
 会場がざわりと揺れた。

「これは……?」
「制作者の証明ですわ」

 キャサリンが告げる。

「当たり前ですが、これは描く前の段階で絵の具に混ぜこんだもの。つまり、本物の制作者でなければ再現することはできません」

 伯爵の顔から血の気が引いていく。

「で、でたらめだ。そのような細工など――」
「エマ」

 キャサリンが短く名前を呼ぶ。

「はい」

 エマが今度は別の書類を取り出していた。

「こちらは、この作品が伯爵のもとへ届けられた際の受け渡し記録です。加えて、関わった使用人の方々からも証言をいただいております」

 さらに1枚、キャサリンが紙を取る。

「こちらは過去5年間にわたる、同様の事例の記録です。被害を受けた方々の証言も、すべて揃えております」

 会場がしんと静まり返っていた。
 だれもが成り行きを見守っている。
 逃げ道を一つずつ塞がれていく伯爵の顔が、怒りと焦りで歪んでいた。

「……貴様、何者だ」

 低く絞り出すような声。

「エルフェルト公爵家のキャサリンですわ。先ほどご紹介しましたでしょう」

 涼しい顔で言い返して、キャサリンは静かに伯爵を見据えた。

「グレアム伯爵。あなたが育てたのは芸術家ではなく、ご自身の虚栄心だった。それだけのことですわ」

 その一言が、広間の空気に静かに溶けていった。
 反論の声は、ついに伯爵の口から出ることはなかった。
 意気消沈したようにうつむいている。
 まばらな拍手がキャサリンに向けて発せられた。

 ――私を褒めなくてもいいんだけど。

 困ったように笑いながらキャサリンはその場から立ち去った。


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 騒動が収束したあとの会場は、嵐の過ぎ去った後のように静かだった。
 伯爵は主催者側に連行され、被害者たちの訴えは正式に受理される流れとなるようだ。
 当然の報いだろう。
 相応の罰金が科せられる見込みで、伯爵家は多くの資産を失うに違いない。
 会場の端にいるキャサリンのもとへ、フィリップが歩いて来る。

「終わったな」
「ええ」

 短いやり取り。
 しばらく間があった。

「助かった。礼を言う」

 フィリップが、どこかぎこちなく言った。

「別にあなたのためだけではありませんわ」

 キャサリンがさらりと返す。

「……それでもだ」

 フィリップが珍しく、まっすぐにキャサリンを見た。

「あなたは思っていたよりもずっと、話のわかる人間だった」
「あら、失礼な」

 眉を上げたキャサリンに、フィリップが小さく笑う。
 それだけだ
 2人はすぐに、別々の方向へと歩きだす。
 少し離れた場所から、その様子を見ていたエマが静かに口を開いた。

「よい従兄弟様ですね」
「そうかしら」

 キャサリンが素っ気なく答えた。
 しかしその顔の表情が悪くないことを、エマはしっかりと見届けていた。

「次へ参りましょうか、お嬢様」
「ええ」

 2人は連れ立って、会場をあとにした。