フィリップの新作は、静かな湖畔を描いた風景画だった。
水面に映る木々の緑。
差し込む光の柔らかさ。
キャサリンは絵の専門家ではないが、それでも息を呑むほどの完成度であることが伝わって来る。
「本物ですわね」
思わず口をついた言葉に、フィリップが困ったように目を細めた。
「今さら確認しなくていい」
「失礼しました」
悪びれない謝罪を返してから、キャサリンはエマに目配せをする。
「お願い」
「はい」
エマが小さな瓶を取り出す。
中に入っているのは、一見すると普通の油だ。
しかし特定の光の下に置くと、塗布した箇所に微細な紋様が浮かび上がる性質を持っている。
調合に少々手間のかかる代物だったが、エマはすでに用意を済ませていた。
「これを絵の具に混ぜ込みます。表面上はまったく変わりません。しかし、この光を当てれば――」
キャサリンが説明しながらエマに合図する。
エマが手にした小さな魔道具から、細い光の筋を絵の端に向けた。
かすかな紋様が浮かびあがる。
「なるほど。差し替えられたあとも、これが残る」
「そのとおりですわ。あとは伯爵が自分で勝手に動いてくれます」
フィリップが一度だけ、自分の絵に視線を落とした。
それから、静かに顎を引いた。
「……。頼む」
✿✿✿❀✿✿✿
その後の1週間、エマは忙しく動いた。
伯爵の周辺に出入りする人間への聞き込み。
作品の受け渡しに関わった使用人からの証言。
金の流れを示す記録。
過去の被害者への密かな連絡と、証言の取りまとめ。
グレアム伯爵は今回も変わらずに動いた。
フィリップから預かった作品を、別人の名義で展覧会に出展する手配を粛々と進めていた。
自分が罠の中にいることなど、露ほども疑っていないようだった。
「順調ですわね」
エマから報告を受けながら、キャサリンが静かに言った。
「はい。当日までに証拠は揃います」
「ご苦労様」
労ってから、キャサリンはふと窓の外に目をやった。
いつもより木々が美しく見えた。
✿✿✿❀✿✿✿
展覧会の前日。
フィリップが三度、キャサリンの屋敷を訪ねてきた。
「……。……本当にうまくいくのだろうか」
応接室に通したフィリップが、開口一番にそう言った。
前回と同じ問いだ。
しかし、今回は前回よりも声が低い。
それは不安を露わにしているというよりも、覚悟を固めようとしている人間の声音に近かった。
「明日、会場で自分の絵が別人の名前で飾られているのを見るのは……正直、気分のいいものではないと思う」
「そうでしょうね」
キャサリンは淡々とうなずく。
その後、まっすぐにフィリップを見据えてから言葉をつづけた。
「問題なのは、あなたの絵が本物かどうか、それだけですわ。別人の名前で飾られたところで、本物は本物のままですから」
フィリップが静かに息を吐く。
「……。そうだな。……そうかもしれない」
それっきり、しばらくの間は沈黙が生まれた。
決して、気まずくはない。
それほど親しくもない2人の間に初めて生まれた、穏やかな時間だった。
「当日もよろしく頼む」
「お任せを」
キャサリンが力強くうなずく。
――過去に戻るまでもない相手ですからね。
失敗するわけがなかった。
✿✿✿❀✿✿✿
展覧会当日。
会場となった貴族の邸宅の大広間は、華やかな人々で埋め尽くされていた。
クラリスとの立ち話を終えたキャサリンも、まもなく現場に到着する。
絵画、彫刻、織物。
所狭しと並んだ作品の前を、きらびやかな衣装の貴族たちが行き交っていた。
その中心に、一枚の風景画がある。
静かな湖畔。
水面に映る木々の緑。
差し込む光の柔らかさ。
しかし、その傍らに立てられた名札には、やはりフィリップの名前がない。
「素晴らしい作品ですな」
「さすがグレアム伯爵。お目が高い」
賞賛の声が飛び交う中、当の伯爵は満足げに腕を組んでいた。
初老の、いかにも社交慣れした風貌の男性だ。
愛想のいい笑みを浮かべながら、賛辞を受け流している。
その光景を、キャサリンは少し離れた場所から眺めていた。
「……参りましょうか」
エマが静かに言う。
キャサリンも鷹揚にうなずいた。
「グレアム伯爵」
キャサリンが歩み寄る。
伯爵が振り返り、珍しい令嬢に一瞬だけ戸惑いを見せてから、すぐに愛想よく笑った。
「これはこれは……エルフェルト公爵家のご令嬢でしたか。わざわざのお越しを」
「ええ。素晴らしい展覧会ですわね」
キャサリンが微笑む。
その視線が、自然と風景画へと向いた。
「こちらの作品、特に気に入りましたわ」
「お目が高い。若手の画家ですが、なかなかの才能でしょう?」
「そうですわね……」
ゆっくりと、キャサリンが絵に近づいてく。
「ところで伯爵、少々確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいですとも、なんなりと聞いてください」
グレアムが気前良さそうに首肯する。
「こちらの作品は、どなたが描いたんですの?」
「そこに書いてありませんかな? ガザードです。私の甥なのですが……」
「本当に?」
伯爵の表情が、かすかに固まる。
「……。何を仰りたいのですかな」
「そのままの意味ですわ」
キャサリンがエマに目配せをする。
エマが静かに前へ出て、小さな魔道具を取り出した。
「少し、光を当てさせていただきますね」
細い光の筋が、絵の端に向けて当てられる。
次の瞬間、そこに微細な紋様が浮かび上がった。
そこにははっきりとフィリップ・エルフェルトの名前が刻まれている。
会場がざわりと揺れた。
「これは……?」
「制作者の証明ですわ」
キャサリンが告げる。
「当たり前ですが、これは描く前の段階で絵の具に混ぜこんだもの。つまり、本物の制作者でなければ再現することはできません」
伯爵の顔から血の気が引いていく。
「で、でたらめだ。そのような細工など――」
「エマ」
キャサリンが短く名前を呼ぶ。
「はい」
エマが今度は別の書類を取り出していた。
「こちらは、この作品が伯爵のもとへ届けられた際の受け渡し記録です。加えて、関わった使用人の方々からも証言をいただいております」
さらに1枚、キャサリンが紙を取る。
「こちらは過去5年間にわたる、同様の事例の記録です。被害を受けた方々の証言も、すべて揃えております」
会場がしんと静まり返っていた。
だれもが成り行きを見守っている。
逃げ道を一つずつ塞がれていく伯爵の顔が、怒りと焦りで歪んでいた。
「……貴様、何者だ」
低く絞り出すような声。
「エルフェルト公爵家のキャサリンですわ。先ほどご紹介しましたでしょう」
涼しい顔で言い返して、キャサリンは静かに伯爵を見据えた。
「グレアム伯爵。あなたが育てたのは芸術家ではなく、ご自身の虚栄心だった。それだけのことですわ」
その一言が、広間の空気に静かに溶けていった。
反論の声は、ついに伯爵の口から出ることはなかった。
意気消沈したようにうつむいている。
まばらな拍手がキャサリンに向けて発せられた。
――私を褒めなくてもいいんだけど。
困ったように笑いながらキャサリンはその場から立ち去った。
✿✿✿❀✿✿✿
騒動が収束したあとの会場は、嵐の過ぎ去った後のように静かだった。
伯爵は主催者側に連行され、被害者たちの訴えは正式に受理される流れとなるようだ。
当然の報いだろう。
相応の罰金が科せられる見込みで、伯爵家は多くの資産を失うに違いない。
会場の端にいるキャサリンのもとへ、フィリップが歩いて来る。
「終わったな」
「ええ」
短いやり取り。
しばらく間があった。
「助かった。礼を言う」
フィリップが、どこかぎこちなく言った。
「別にあなたのためだけではありませんわ」
キャサリンがさらりと返す。
「……それでもだ」
フィリップが珍しく、まっすぐにキャサリンを見た。
「あなたは思っていたよりもずっと、話のわかる人間だった」
「あら、失礼な」
眉を上げたキャサリンに、フィリップが小さく笑う。
それだけだ
2人はすぐに、別々の方向へと歩きだす。
少し離れた場所から、その様子を見ていたエマが静かに口を開いた。
「よい従兄弟様ですね」
「そうかしら」
キャサリンが素っ気なく答えた。
しかしその顔の表情が悪くないことを、エマはしっかりと見届けていた。
「次へ参りましょうか、お嬢様」
「ええ」
2人は連れ立って、会場をあとにした。
水面に映る木々の緑。
差し込む光の柔らかさ。
キャサリンは絵の専門家ではないが、それでも息を呑むほどの完成度であることが伝わって来る。
「本物ですわね」
思わず口をついた言葉に、フィリップが困ったように目を細めた。
「今さら確認しなくていい」
「失礼しました」
悪びれない謝罪を返してから、キャサリンはエマに目配せをする。
「お願い」
「はい」
エマが小さな瓶を取り出す。
中に入っているのは、一見すると普通の油だ。
しかし特定の光の下に置くと、塗布した箇所に微細な紋様が浮かび上がる性質を持っている。
調合に少々手間のかかる代物だったが、エマはすでに用意を済ませていた。
「これを絵の具に混ぜ込みます。表面上はまったく変わりません。しかし、この光を当てれば――」
キャサリンが説明しながらエマに合図する。
エマが手にした小さな魔道具から、細い光の筋を絵の端に向けた。
かすかな紋様が浮かびあがる。
「なるほど。差し替えられたあとも、これが残る」
「そのとおりですわ。あとは伯爵が自分で勝手に動いてくれます」
フィリップが一度だけ、自分の絵に視線を落とした。
それから、静かに顎を引いた。
「……。頼む」
✿✿✿❀✿✿✿
その後の1週間、エマは忙しく動いた。
伯爵の周辺に出入りする人間への聞き込み。
作品の受け渡しに関わった使用人からの証言。
金の流れを示す記録。
過去の被害者への密かな連絡と、証言の取りまとめ。
グレアム伯爵は今回も変わらずに動いた。
フィリップから預かった作品を、別人の名義で展覧会に出展する手配を粛々と進めていた。
自分が罠の中にいることなど、露ほども疑っていないようだった。
「順調ですわね」
エマから報告を受けながら、キャサリンが静かに言った。
「はい。当日までに証拠は揃います」
「ご苦労様」
労ってから、キャサリンはふと窓の外に目をやった。
いつもより木々が美しく見えた。
✿✿✿❀✿✿✿
展覧会の前日。
フィリップが三度、キャサリンの屋敷を訪ねてきた。
「……。……本当にうまくいくのだろうか」
応接室に通したフィリップが、開口一番にそう言った。
前回と同じ問いだ。
しかし、今回は前回よりも声が低い。
それは不安を露わにしているというよりも、覚悟を固めようとしている人間の声音に近かった。
「明日、会場で自分の絵が別人の名前で飾られているのを見るのは……正直、気分のいいものではないと思う」
「そうでしょうね」
キャサリンは淡々とうなずく。
その後、まっすぐにフィリップを見据えてから言葉をつづけた。
「問題なのは、あなたの絵が本物かどうか、それだけですわ。別人の名前で飾られたところで、本物は本物のままですから」
フィリップが静かに息を吐く。
「……。そうだな。……そうかもしれない」
それっきり、しばらくの間は沈黙が生まれた。
決して、気まずくはない。
それほど親しくもない2人の間に初めて生まれた、穏やかな時間だった。
「当日もよろしく頼む」
「お任せを」
キャサリンが力強くうなずく。
――過去に戻るまでもない相手ですからね。
失敗するわけがなかった。
✿✿✿❀✿✿✿
展覧会当日。
会場となった貴族の邸宅の大広間は、華やかな人々で埋め尽くされていた。
クラリスとの立ち話を終えたキャサリンも、まもなく現場に到着する。
絵画、彫刻、織物。
所狭しと並んだ作品の前を、きらびやかな衣装の貴族たちが行き交っていた。
その中心に、一枚の風景画がある。
静かな湖畔。
水面に映る木々の緑。
差し込む光の柔らかさ。
しかし、その傍らに立てられた名札には、やはりフィリップの名前がない。
「素晴らしい作品ですな」
「さすがグレアム伯爵。お目が高い」
賞賛の声が飛び交う中、当の伯爵は満足げに腕を組んでいた。
初老の、いかにも社交慣れした風貌の男性だ。
愛想のいい笑みを浮かべながら、賛辞を受け流している。
その光景を、キャサリンは少し離れた場所から眺めていた。
「……参りましょうか」
エマが静かに言う。
キャサリンも鷹揚にうなずいた。
「グレアム伯爵」
キャサリンが歩み寄る。
伯爵が振り返り、珍しい令嬢に一瞬だけ戸惑いを見せてから、すぐに愛想よく笑った。
「これはこれは……エルフェルト公爵家のご令嬢でしたか。わざわざのお越しを」
「ええ。素晴らしい展覧会ですわね」
キャサリンが微笑む。
その視線が、自然と風景画へと向いた。
「こちらの作品、特に気に入りましたわ」
「お目が高い。若手の画家ですが、なかなかの才能でしょう?」
「そうですわね……」
ゆっくりと、キャサリンが絵に近づいてく。
「ところで伯爵、少々確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいですとも、なんなりと聞いてください」
グレアムが気前良さそうに首肯する。
「こちらの作品は、どなたが描いたんですの?」
「そこに書いてありませんかな? ガザードです。私の甥なのですが……」
「本当に?」
伯爵の表情が、かすかに固まる。
「……。何を仰りたいのですかな」
「そのままの意味ですわ」
キャサリンがエマに目配せをする。
エマが静かに前へ出て、小さな魔道具を取り出した。
「少し、光を当てさせていただきますね」
細い光の筋が、絵の端に向けて当てられる。
次の瞬間、そこに微細な紋様が浮かび上がった。
そこにははっきりとフィリップ・エルフェルトの名前が刻まれている。
会場がざわりと揺れた。
「これは……?」
「制作者の証明ですわ」
キャサリンが告げる。
「当たり前ですが、これは描く前の段階で絵の具に混ぜこんだもの。つまり、本物の制作者でなければ再現することはできません」
伯爵の顔から血の気が引いていく。
「で、でたらめだ。そのような細工など――」
「エマ」
キャサリンが短く名前を呼ぶ。
「はい」
エマが今度は別の書類を取り出していた。
「こちらは、この作品が伯爵のもとへ届けられた際の受け渡し記録です。加えて、関わった使用人の方々からも証言をいただいております」
さらに1枚、キャサリンが紙を取る。
「こちらは過去5年間にわたる、同様の事例の記録です。被害を受けた方々の証言も、すべて揃えております」
会場がしんと静まり返っていた。
だれもが成り行きを見守っている。
逃げ道を一つずつ塞がれていく伯爵の顔が、怒りと焦りで歪んでいた。
「……貴様、何者だ」
低く絞り出すような声。
「エルフェルト公爵家のキャサリンですわ。先ほどご紹介しましたでしょう」
涼しい顔で言い返して、キャサリンは静かに伯爵を見据えた。
「グレアム伯爵。あなたが育てたのは芸術家ではなく、ご自身の虚栄心だった。それだけのことですわ」
その一言が、広間の空気に静かに溶けていった。
反論の声は、ついに伯爵の口から出ることはなかった。
意気消沈したようにうつむいている。
まばらな拍手がキャサリンに向けて発せられた。
――私を褒めなくてもいいんだけど。
困ったように笑いながらキャサリンはその場から立ち去った。
✿✿✿❀✿✿✿
騒動が収束したあとの会場は、嵐の過ぎ去った後のように静かだった。
伯爵は主催者側に連行され、被害者たちの訴えは正式に受理される流れとなるようだ。
当然の報いだろう。
相応の罰金が科せられる見込みで、伯爵家は多くの資産を失うに違いない。
会場の端にいるキャサリンのもとへ、フィリップが歩いて来る。
「終わったな」
「ええ」
短いやり取り。
しばらく間があった。
「助かった。礼を言う」
フィリップが、どこかぎこちなく言った。
「別にあなたのためだけではありませんわ」
キャサリンがさらりと返す。
「……それでもだ」
フィリップが珍しく、まっすぐにキャサリンを見た。
「あなたは思っていたよりもずっと、話のわかる人間だった」
「あら、失礼な」
眉を上げたキャサリンに、フィリップが小さく笑う。
それだけだ
2人はすぐに、別々の方向へと歩きだす。
少し離れた場所から、その様子を見ていたエマが静かに口を開いた。
「よい従兄弟様ですね」
「そうかしら」
キャサリンが素っ気なく答えた。
しかしその顔の表情が悪くないことを、エマはしっかりと見届けていた。
「次へ参りましょうか、お嬢様」
「ええ」
2人は連れ立って、会場をあとにした。

