それから、数日後。
ヘリ担当の日。
朝のカンファレンス前。
ICUはいつも通り慌ただしかった。
モニター音、スタッフたちの声、行き交う足音。
その中で私は何気なく、フライトボードへ視線を向けた。
そこには、その日のフライト担当が書かれている。
フライトドクター。
フライトナース。
CS。
毎日変わる、その配置表。
私は思わず足を止めた。
——フライトドクター 西国
——フライトナース 一ノ瀬 橘
一瞬呼吸が止まる。
隣で資料を見ていた橘さんも、ぴたりと動きを止めた。
「……え」
小さく漏れた声。
私はゆっくり橘さんを見る。
橘さんの顔が、みるみる青ざめていく。
指先が震えていた。
無理もない。
だって事故以来、初めてだった。
橘さんの名前が、正式にフライトメンバーへ入ったのは。
その時後ろから低い声。
「気づいたか」
振り返る。
西国先生だった。
腕を組みながら、いつもの無表情。
でもその目だけは真っ直ぐだった。
橘さんが慌てたように口を開く。
「せ、先生……あの、私……」
声が震えている。
「まだ……」
“乗れません”
そう言いかけたのが分かった。
でも西国先生は静かに遮った。
「今日は訓練じゃない」
「実際に飛ぶ」
橘さんの顔が強張る。
ICUの空気が、少しだけ静かになる。
私は橘さんの横顔を見た。
苦しそうだった。
怖いんだと思う。
今にも逃げ出したいくらい。
その時。また別の声。
「まぁでも」
森崎さんだった。
いつの間にか後ろへ立っていた。
いつもの調子で笑う。
「今日は俺も後ろ乗るから」
橘さんが、はっと顔を上げる。
「……え」
「サポート枠」
「なんかあったらすぐ代わる」
その声は軽かった。
きっと橘さんが少しでも安心できるように、わざとそうしてる。
私は、すぐ分かった。
森崎さんは続ける。
「だから今日は」
「“飛ぶ”だけでええ」
橘さんの目が揺れる。
“処置を完璧にしなきゃ”
“ちゃんと動かなきゃ”
そんなプレッシャーを、一旦外してくれたんだ。
飛ぶだけ。乗るだけ。
まずは、それだけでいいって。
西国先生も、小さく頷く。
「無理なら途中で降ろす」
「でも」
そこで一度、橘さんを見る。
「逃げるな」
短い言葉。
その声には、ちゃんと信頼があった。
橘さんは唇を噛む。
震える指。苦しそうな呼吸。
それでも。数秒後。
小さく、小さく頷いた。
「……はい」
掠れた声だった。
でも確かに、前を向いた声だった。
その瞬間。
森崎さんがパンッと手を叩く。
「よし!」
「ほな朝カンいこか!」
一気にいつもの空気へ戻してくれる。
周囲も自然に動き始める。
私はその背中を見ながら、ふと思う。
この人、本当にすごいなって。
人を支えるのが上手すぎる。
そして。
私はもう一度、フライトボードを見る。
——一ノ瀬
——橘
並んだ名前。
事故の日には想像できなかった光景。
でも。
今度こそ。
今度こそ、ちゃんと一緒に飛びたい。
私は静かに息を吸った。
ヘリ担当の日。
朝のカンファレンス前。
ICUはいつも通り慌ただしかった。
モニター音、スタッフたちの声、行き交う足音。
その中で私は何気なく、フライトボードへ視線を向けた。
そこには、その日のフライト担当が書かれている。
フライトドクター。
フライトナース。
CS。
毎日変わる、その配置表。
私は思わず足を止めた。
——フライトドクター 西国
——フライトナース 一ノ瀬 橘
一瞬呼吸が止まる。
隣で資料を見ていた橘さんも、ぴたりと動きを止めた。
「……え」
小さく漏れた声。
私はゆっくり橘さんを見る。
橘さんの顔が、みるみる青ざめていく。
指先が震えていた。
無理もない。
だって事故以来、初めてだった。
橘さんの名前が、正式にフライトメンバーへ入ったのは。
その時後ろから低い声。
「気づいたか」
振り返る。
西国先生だった。
腕を組みながら、いつもの無表情。
でもその目だけは真っ直ぐだった。
橘さんが慌てたように口を開く。
「せ、先生……あの、私……」
声が震えている。
「まだ……」
“乗れません”
そう言いかけたのが分かった。
でも西国先生は静かに遮った。
「今日は訓練じゃない」
「実際に飛ぶ」
橘さんの顔が強張る。
ICUの空気が、少しだけ静かになる。
私は橘さんの横顔を見た。
苦しそうだった。
怖いんだと思う。
今にも逃げ出したいくらい。
その時。また別の声。
「まぁでも」
森崎さんだった。
いつの間にか後ろへ立っていた。
いつもの調子で笑う。
「今日は俺も後ろ乗るから」
橘さんが、はっと顔を上げる。
「……え」
「サポート枠」
「なんかあったらすぐ代わる」
その声は軽かった。
きっと橘さんが少しでも安心できるように、わざとそうしてる。
私は、すぐ分かった。
森崎さんは続ける。
「だから今日は」
「“飛ぶ”だけでええ」
橘さんの目が揺れる。
“処置を完璧にしなきゃ”
“ちゃんと動かなきゃ”
そんなプレッシャーを、一旦外してくれたんだ。
飛ぶだけ。乗るだけ。
まずは、それだけでいいって。
西国先生も、小さく頷く。
「無理なら途中で降ろす」
「でも」
そこで一度、橘さんを見る。
「逃げるな」
短い言葉。
その声には、ちゃんと信頼があった。
橘さんは唇を噛む。
震える指。苦しそうな呼吸。
それでも。数秒後。
小さく、小さく頷いた。
「……はい」
掠れた声だった。
でも確かに、前を向いた声だった。
その瞬間。
森崎さんがパンッと手を叩く。
「よし!」
「ほな朝カンいこか!」
一気にいつもの空気へ戻してくれる。
周囲も自然に動き始める。
私はその背中を見ながら、ふと思う。
この人、本当にすごいなって。
人を支えるのが上手すぎる。
そして。
私はもう一度、フライトボードを見る。
——一ノ瀬
——橘
並んだ名前。
事故の日には想像できなかった光景。
でも。
今度こそ。
今度こそ、ちゃんと一緒に飛びたい。
私は静かに息を吸った。

