夜になった頃。
ICU前の空気は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
そんな中廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
黒いスーツ姿の男性。
背の高い、整った顔立ち。
でもその表情には、明らかな疲労が滲んでいた。
「……黒瀬さん」
黒騎士のマネージャー。
私は以前、東京で一度だけ会ったことがある。
黒瀬さんはまず、紗凪のお父さんお母さんへ深く頭を下げた。
「初めまして。佐野陽貴のマネージャーをしております、黒瀬です」
落ち着いた、大人の声。
お父さんも静かに頭を下げ返した。
黒瀬さんの視線は、その後すぐ陽貴さんへ向いた。
空気が変わる。
「陽貴」
低い声。
陽貴さんは、紗凪の手を握ったまま振り返る。
「……何」
「もう戻らないといけない」
その瞬間。
部屋の空気が張った。
陽貴さんの表情が、一気に消える。
「……嫌だ」
即答だった。
黒瀬さんも表情を変えない。
「気持ちは分かる。でも限界だ」
「2日間、出来る限りこっちも調整した」
「スポンサーも、現場も、全部止めてる」
静かな声。
でもかなり切羽詰まっていた。
「これ以上は待てない」
陽貴さんが、ゆっくり立ち上がる。
「……こんな状態で?」
掠れた声。
「紗凪がこんな状態なのに、俺だけ帰れって?」
黒瀬さんも引かない。
「陽貴、お前一人で何人動いてると思ってる」
「分かってる」
「分かってない」
空気が重くなる。
陽貴さんは完全に拒絶の目をしていた。
「俺は行かない」
「絶対無理」
「今ここ離れるとか、ありえない」
声が震えている。
怒りじゃない。
怖いんだ。
また目を離した瞬間、失うんじゃないかって。
それが痛いほど伝わってくる。
私は思わず視線を落とした。
……そりゃそうだ。
やっと目を開けたばかりなのに。
そんな簡単に離れられるわけがない。
でも。
黒瀬さんの言ってることも分かる。
この人は、“佐野陽貴”を背負ってる。
その責任の重さも、本物だ。
どうしたらいいんだろう。
そう思った、その時だった。
きゅっ——
小さな音。
全員の視線が、ベッドへ向く。
紗凪だった。
陽貴さんの手を、ぎゅっと握っている。
「……紗凪?」
陽貴さんがすぐ顔を近づける。
紗凪は、ゆっくり瞼を開けた。
まだぼんやりしてる。
焦点も不安定。
それでも。
何かを伝えようとしていた。
「どうした?」
陽貴さんの声が、一気に優しくなる。
「苦しい?」
「どっか痛い?」
紗凪は小さく首を横に振る。
そして。
弱々しい手で、陽貴さんの手を押した。
まるで。
“行って”
そう言うみたいに。
陽貴さんの表情が止まる。
「……やだ」
子どもみたいな声だった。
「行かない」
紗凪は苦しそうに息をしながら。
それでもまた、小さく手を押す。
涙が、陽貴さんの目に滲む。
「……なんでそんなことするの」
掠れた声。
「今、俺のことなんかいいから」
「ちゃんと自分のこと考えてよ……」
でも。
紗凪は、また小さく首を横に振った。
その目が。
“あなたが大事だから”
そう言ってるみたいで。
陽貴さんは、とうとう俯いた。
握った手に額を押し当てる。
肩が震えていた。
誰も、何も言えなかった。
ICU前の空気は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
そんな中廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
黒いスーツ姿の男性。
背の高い、整った顔立ち。
でもその表情には、明らかな疲労が滲んでいた。
「……黒瀬さん」
黒騎士のマネージャー。
私は以前、東京で一度だけ会ったことがある。
黒瀬さんはまず、紗凪のお父さんお母さんへ深く頭を下げた。
「初めまして。佐野陽貴のマネージャーをしております、黒瀬です」
落ち着いた、大人の声。
お父さんも静かに頭を下げ返した。
黒瀬さんの視線は、その後すぐ陽貴さんへ向いた。
空気が変わる。
「陽貴」
低い声。
陽貴さんは、紗凪の手を握ったまま振り返る。
「……何」
「もう戻らないといけない」
その瞬間。
部屋の空気が張った。
陽貴さんの表情が、一気に消える。
「……嫌だ」
即答だった。
黒瀬さんも表情を変えない。
「気持ちは分かる。でも限界だ」
「2日間、出来る限りこっちも調整した」
「スポンサーも、現場も、全部止めてる」
静かな声。
でもかなり切羽詰まっていた。
「これ以上は待てない」
陽貴さんが、ゆっくり立ち上がる。
「……こんな状態で?」
掠れた声。
「紗凪がこんな状態なのに、俺だけ帰れって?」
黒瀬さんも引かない。
「陽貴、お前一人で何人動いてると思ってる」
「分かってる」
「分かってない」
空気が重くなる。
陽貴さんは完全に拒絶の目をしていた。
「俺は行かない」
「絶対無理」
「今ここ離れるとか、ありえない」
声が震えている。
怒りじゃない。
怖いんだ。
また目を離した瞬間、失うんじゃないかって。
それが痛いほど伝わってくる。
私は思わず視線を落とした。
……そりゃそうだ。
やっと目を開けたばかりなのに。
そんな簡単に離れられるわけがない。
でも。
黒瀬さんの言ってることも分かる。
この人は、“佐野陽貴”を背負ってる。
その責任の重さも、本物だ。
どうしたらいいんだろう。
そう思った、その時だった。
きゅっ——
小さな音。
全員の視線が、ベッドへ向く。
紗凪だった。
陽貴さんの手を、ぎゅっと握っている。
「……紗凪?」
陽貴さんがすぐ顔を近づける。
紗凪は、ゆっくり瞼を開けた。
まだぼんやりしてる。
焦点も不安定。
それでも。
何かを伝えようとしていた。
「どうした?」
陽貴さんの声が、一気に優しくなる。
「苦しい?」
「どっか痛い?」
紗凪は小さく首を横に振る。
そして。
弱々しい手で、陽貴さんの手を押した。
まるで。
“行って”
そう言うみたいに。
陽貴さんの表情が止まる。
「……やだ」
子どもみたいな声だった。
「行かない」
紗凪は苦しそうに息をしながら。
それでもまた、小さく手を押す。
涙が、陽貴さんの目に滲む。
「……なんでそんなことするの」
掠れた声。
「今、俺のことなんかいいから」
「ちゃんと自分のこと考えてよ……」
でも。
紗凪は、また小さく首を横に振った。
その目が。
“あなたが大事だから”
そう言ってるみたいで。
陽貴さんは、とうとう俯いた。
握った手に額を押し当てる。
肩が震えていた。
誰も、何も言えなかった。

