その日も朝から気温が高かった。
アスファルトから立ち上る熱気。
ヘリポートへ吹き抜ける風まで熱を含んでいる。
午後15時42分。
大阪中央医療センター、ドクターヘリ要請。
『現場は工事現場。40代男性、高所転落。骨盤外傷疑い。ショックバイタル』
ヘッドセット越しの通信。
私は膝の上のタブレットへ視線を落としながら頷く。
「了解です」
隣では橘さんが真剣な顔で現場情報を読み込んでいた。
一ヶ月。
このチームで動き続けて、橘さんは本当に変わった。
焦りに飲まれなくなった。
周りを見る余裕も出てきた。
報告も的確。観察も早い。
そして何より、“一人で抱え込まなくなった”。
だから今日も大丈夫。
そう思っていた。
「現着まで6分」
操縦士の声。
「先生、骨盤外傷メインでいきますか?」
橘さんが西国先生へ確認する。
「まずは循環評価優先」
「ショック強ければFASTも視野」
「了解です」
その返答も落ち着いていた。
私は小さく笑う。
「ほんと、変わったね」
すると橘さんが少しだけ照れたみたいに眉を寄せる。
「……一ノ瀬さんたちに毎日鍛えられてるので」
思わず二人で少し笑う。
その瞬間だけ、いつもの空気だった。
ヘリが高度を下げていく。
窓の下、見えてきた工事現場。
大型建設中のビル。
クレーン。足場。規制線。救急車。消防。
騒然とした空気。
ローター音がさらに強くなる。
着陸、風圧で砂埃が舞う。
私たちは身を低くしながら機外へ降りた。
「ドクターヘリです!」
消防隊員が駆け寄る。
「患者は40代男性!足場から約5メートル転落!」
「受傷直後は会話可能!」
「現在意識レベル低下!」
「血圧80台!」
私は走りながら周囲を確認する。
重機、鉄骨、吊り荷、作業員、退避経路。
——現場はまだ完全停止していないようだった。
嫌な感じがした。
「現場止まってますか?」
私は消防へ確認する。
「現在停止指示中です!」
“中”。
完全停止じゃない。
その瞬間。
「一ノ瀬さん、患者あそこです!」
橘さんの声。
患者が視界へ入る。
40代男性、仰臥位、呼吸浅い、顔面蒼白。
骨盤周囲に明らかな変形。
ショック徴候。
そして突然。患者の身体が痙攣みたいに揺れた。
「っ、意識レベル落ちてます!」
橘さんが駆け出す。
私は反射的に周囲を見る。
上。
クレーン。
資材。
固定。
——嫌な予感。
「待って、周囲確認——」
でも。
その時にはもう、橘さんは患者のそばへ入っていた。
「橘行くな!!」
西国先生の怒声。
その瞬間だった。
ギギギギギ——ッ!!
耳を裂くような金属音。
全員が反射で上を見る。
クレーン付近。
固定されていた鉄骨資材が、大きく傾いた。
「危ない!!!」
誰かの絶叫。
時間が、一瞬だけスローモーションみたいになった。
橘さんが固まっている。
逃げ遅れる。
間に合わない。
そう思った瞬間。
身体が勝手に動いていた。
私は橘さんの肩を思い切り突き飛ばす。
「っ——!!」
次の瞬間。
鈍い衝撃。
背中。
肩。
身体の左側へ、信じられない重さが叩きつけられる。
骨が軋む感覚。
息が止まる。
視界が白く弾けた。
地面へ叩きつけられる。
肩から感じる生暖かい感触。…血?
音が遠い。
呼吸が、出来ない。
「一ノ瀬さん!!!」
橘さんの絶叫。
遠くでサイレン。
怒号。
無線。
全部が混ざる。
私は何とか目を開けようとする。
でも身体が動かない。
左側が熱い。
痛い。
呼吸するたび胸が軋む。
「……っ、ぁ……」
声にならない。
「一ノ瀬!しっかり!」
西国先生が駆け寄る。
「反応あります!」
「呼吸浅い!」
「SpO₂低下!」
「左胸動き悪い!」
周囲が一気に慌ただしくなる。
私はぼんやりした視界の中で、西国先生の顔を見る。
真剣な顔。
その奥に、焦りが見えた。
西国先生の焦っている顔を初めて見た。
「橘、バック!」
「……っ、はい!!」
橘さんの声が震えている。
顔面蒼白だった。
唇まで真っ白で。
手も震えていた。
大丈夫だよと声をかけたいのに声が出ない。
「ルート確保!」
「酸素上げて!」
西国先生が指示を飛ばす。
私は薄れていく意識の中で、必死に呼吸をしようとする。
でも吸えない。
苦しい。
「……っ……」
視界が滲む。
その時。
橘さんが私の手を握った。
震える手。
「一ノ瀬さん…」
声が、泣きそうだった。
「ごめんなさい……」
私は返事をしようとした。
でも。
声にならない。
意識が、沈む。
遠くで西国先生の声。
「ヘリ搬送に切り替える!」
「患者は救急隊搬送!」
「こちらクルー受傷!」
その瞬間。
現場の空気が一気に変わった。
ドクヘリクルー受傷。
最悪に近い事態。
誰かが走る音。
無線。
怒号。
でももう。
音が遠い。
視界が暗く落ちていく。
最後に見えたのは。
泣きそうな顔でこちらを見ている橘さんだった。

