貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

「昼の利用者は、単に早く食事を済ませたいだけではなく、午後に戻る前に一度気持ちを切り替えたい人が多いと考えています」

声は震えていない。

たぶん。

「その時に必要なのは、スピードだけではなく、『ここに座っていい』と感じられる安心です。席があるかどうか、どこに並べばいいか、後ろの人を待たせていないか。そうした小さな不安を、店頭の一言や視線の誘導で減らしていきます」

スライドには、真鍋が起こしたラフが映っている。

入口から見える短いサイン。
一人席への誘導。
二人客が自然に奥へ進める導線。

「昼のコピーは、『午後へ戻る前に、ひと息だけ逃げ込める場所』です」

言った瞬間、自分の胸が少しだけ熱くなった。

これは、私の言葉だ。

公園のベンチで、会社から少し離れて、誰にも踏み込まれずに好きなものを描いていた私の感覚から出た言葉。

怖い。

でも、私の言葉を伝えたかった。

久保田が腕を組んだ。

「なるほど。導線としてはよく整理されています」

ほっとしかけた、その直後だった。

「ただ」

ただ。

この世でもっとも不穏な接続詞のひとつ。

私は、反射的に背筋を伸ばした。

久保田は、モニターを見ながら言った。

「理屈はいいが、感情の流れがまだ弱いですね」

会議室の空気が、少し硬くなった。

胸の奥に、冷たいものが落ちる。

久保田は続けた。

「朝、昼、夜の切り口は分かります。導線改善も実務的です。ただ、ブランドとしてお客様の気持ちがどう変わっていくのかが、まだ点に見える。朝は朝、昼は昼、夜は夜。それぞれの課題は分かるが、リュミエールという店にまた戻ってきたくなる流れが見えにくい」

点。

流れがない。

その言葉は、かなり正確だった。

私はスライドを見た。

朝。
昼。
夜。

三つに分けたことで、見えやすくはなった。
でも、確かに一本の感情にはなっていない。

お客様が店とどう出会い、どう距離を縮め、どう信頼していくのか。

そこまで見せられていない。

私の頭の中で、何かが動き始めた。

これは、関係性だ。

店と客の関係性。

最初は「使いやすい」だけで入る。
次に「自分の居場所がある」と思う。
最後に「今日もここでほどけていい」と思う。

朝、背中を押す。
昼、隣に座る。
夜、何も言わずに受け止める。

それは、時間帯の違いではなく、距離の変化だ。

関係が、少しずつ深くなる流れ。

私は口を開きかけた。

でも、その瞬間、給湯室の声が蘇った。

――課長と瀬名くんと一緒にいすぎじゃない?