駅前に着く頃、雨は少し弱まっていた。
改札へ向かう屋根の下で、私は傘から出た。
「ありがとうございました」
「気をつけて帰れ」
「課長も。袖、本当に濡れてます」
「乾く」
「風邪ひきます」
「ひかない」
「根拠がありません」
榊課長の口元が、ほんのわずかに動いた。
その一ミリの変化に、胸が跳ねる。
だめだ。
これは危険だ。
私は慌てて頭を下げようとした。
その時、榊課長の手が伸びた。
指先が、私の髪に触れた。
「雨」
短く言って、髪先についた水滴を払う。
ただそれだけ。
ただ、それだけなのに。
世界が一瞬、静かになった。
駅前の人の声も、雨の音も、電車のアナウンスも、全部遠くなる。
榊課長の指が離れる。
「……すみません」
なぜ謝ったのか分からない。
榊課長も、少しだけ目を伏せた。
「いや」
それだけだった。
私は改札へ向かいながら、何度も自分に言い聞かせた。
これは業務。
これは上司の配慮。
これは雨のせい。
これは距離が近かったから起きた、ただの現象。
観察対象に、ときめいたわけではない。
観察対象のギャップに反応しただけ。
冷静な上司が猫にやさしく、甘党で、猫舌で、傘をこちらに寄せてくれて、雨粒を払っただけ。
だけ。
だけ、とは。
電車の窓に映る自分の顔が、ひどく赤かった。
私はバッグの中のiPadに触れた。
描きたい、と思った。
でも、いつものように榊課長を「上司風の概念」に変換して、コマに置くことができなかった。
だって、さっきの指先は概念ではない。
濡れた袖も、低い声も、「君の視点は君のものだ」と言った目も。
現実の榊玲司だった。
私は窓の外の雨を見つめた。
もう、言い訳できない気がした。
これは、観察対象にときめいたんじゃない。
私は、榊課長に――。
改札へ向かう屋根の下で、私は傘から出た。
「ありがとうございました」
「気をつけて帰れ」
「課長も。袖、本当に濡れてます」
「乾く」
「風邪ひきます」
「ひかない」
「根拠がありません」
榊課長の口元が、ほんのわずかに動いた。
その一ミリの変化に、胸が跳ねる。
だめだ。
これは危険だ。
私は慌てて頭を下げようとした。
その時、榊課長の手が伸びた。
指先が、私の髪に触れた。
「雨」
短く言って、髪先についた水滴を払う。
ただそれだけ。
ただ、それだけなのに。
世界が一瞬、静かになった。
駅前の人の声も、雨の音も、電車のアナウンスも、全部遠くなる。
榊課長の指が離れる。
「……すみません」
なぜ謝ったのか分からない。
榊課長も、少しだけ目を伏せた。
「いや」
それだけだった。
私は改札へ向かいながら、何度も自分に言い聞かせた。
これは業務。
これは上司の配慮。
これは雨のせい。
これは距離が近かったから起きた、ただの現象。
観察対象に、ときめいたわけではない。
観察対象のギャップに反応しただけ。
冷静な上司が猫にやさしく、甘党で、猫舌で、傘をこちらに寄せてくれて、雨粒を払っただけ。
だけ。
だけ、とは。
電車の窓に映る自分の顔が、ひどく赤かった。
私はバッグの中のiPadに触れた。
描きたい、と思った。
でも、いつものように榊課長を「上司風の概念」に変換して、コマに置くことができなかった。
だって、さっきの指先は概念ではない。
濡れた袖も、低い声も、「君の視点は君のものだ」と言った目も。
現実の榊玲司だった。
私は窓の外の雨を見つめた。
もう、言い訳できない気がした。
これは、観察対象にときめいたんじゃない。
私は、榊課長に――。



