貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

駅へ向かう道は、雨のせいで人が少なかった。
アスファルトに街灯が滲み、車のライトが流れていく。

しばらく歩いたあと、榊課長が言った。

「この前、瀬名に助けられていたな」

心臓が跳ねた。

「はい。三枝さんへの説明の時、場を作ってくれました」

「悪い判断ではない」

声は平静だった。

でも、どこか硬い。

私は横顔を見上げた。

「課長、怒っていますか」

「怒っていない」

「不機嫌では」

「……」

沈黙。

え。

沈黙するんですか。
否定しないんですか。

雨の音が、傘の上で強くなった。

榊課長は前を向いたまま言った。

「瀬名は、場を作るのがうまい」

「はい」

「相手の警戒をほどくのも早い」

「はい」

「お前も、話しやすそうだった」

私は足を止めかけた。

お前も、話しやすそうだった。

その言葉の奥にあるものを、私は観察しようとした。
声の硬さ。
目線の位置。
傘を持つ手。
濡れた袖。

仕事の評価?
部下への確認?
それとも。

「課長」

「何だ」

「それは、仕事の話ですか」

榊課長が、わずかにこちらを見た。

傘の下で、距離が近い。

「……そうだ」

一拍遅れた。

今、遅れた。

榊課長の返事が、ほんの少しだけ遅れた。

私はそれに気づいてしまった。

気づかなければよかった。

心臓が、観察結果を処理しきれずに暴れている。

榊課長は、低く言った。

「瀬名に助けられるのは悪いことじゃない。できない時は、人を使え」

「はい」

「だが、自分の場所を渡すな」

雨の中、その言葉がまっすぐ落ちた。

「君の視点は、君のものだ」

私は息を止めた。

君のもの。

その言葉は、やさしいというより、強かった。
私が逃げようとするのを、逃がさず押さえるような強さ。

「……はい」

声が少し震えた。

榊課長は何も言わなかった。