貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

帰る頃には、雨が本降りになっていた。

真鍋は先にタクシーで帰り、瀬名は営業チームへの共有資料を送ると言って残った。
私はバッグを肩にかけ、エントランスで折りたたみ傘を探した。

ない。

昨日、干したまま玄関に置いてきた。
社会人としての危機管理能力が低い。

「あの、コンビニで傘買って帰ります」

そう言った瞬間、背後から榊課長の声がした。

「駅まで入れ」

振り向くと、榊課長が黒い傘を開いていた。

大きめの傘。
でも、二人で入るには、当然近い。

「あ、いえ、大丈夫です。小雨ですし」

窓の外で、雨が勢いよく地面を叩いていた。

小雨ではない。
自分でも分かっている。

榊課長は私を見た。

「無理がある」

「最近、その指摘多くないですか」

「無理が多いからだ」

返す言葉がない。

そこへ、瀬名がエレベーター前から声をかけた。

「先輩、俺も傘ありますよ」

明るい声。

けれど、榊課長の傘を持つ手が、ほんの少し動いた。

「瀬名」

「はい」

「共有資料、今日中だ」

「分かってます」

「藤代は俺と駅まで行く。お前は業務に戻れ」

瀬名が笑った。

「業務ですか」

「業務だ」

さっき聞いたのと同じ言葉。

瀬名は一拍置いて、私を見た。

「じゃあ先輩、気をつけてください」

「うん。瀬名くんも、無理しないでね」

「それ、俺の台詞です」

瀬名はそう言って、ひらりと手を振った。