貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

「藤代」

低い声が背後から落ちた。

「はいっ」

椅子ごと跳ねかけた私の横に、榊課長が立っていた。

黒いスーツ。
整った髪。
無表情。

朝からこの距離で現れるのはやめていただきたい。
心臓に労災が発生する。

「瀬名から届いたか」

「はい。朝ピーク分と、昼の途中までです」

「見解は」

「今ですか」

「今だ」

急すぎる。

榊課長の仕事は、いつも急な坂道みたいだ。
こちらの足腰が鍛えられている前提で、当然のように登らせてくる。

私は写真を何枚か並べ、息を吸った。

「昼の導線が、いちばんもったいない気がします」

「理由は」

「回転率だけを見ると悪くないと思います。でも、並ぶ前に離脱している人がいます。たぶん、席が取れるか分からないからです」

榊課長は画面を見た。

「席確保の不安か」

「はい。入口から空席が見えにくいので、注文してから座れなかったらどうしよう、という迷いが出るんだと思います。特に一人客は、席が一つ空いていればいいはずなのに、それが見えないから不安になる」

言いながら、私は写真の一枚を拡大した。

トレーを持った女性が、席の奥を見ている。
その斜め後ろで、別の客が列から外れかけている。

「あと、二人客は並び席を探します。でもリュミエールは、一人席と二人席の切り替えが曖昧です。だから、二人で入った人が、ここに隣り合って座っていいのかなって迷う」

「改善案は」

「入口の手前で、席の種類が分かるといいです。たとえば、店頭サインに『一人席あります』『二人席は奥へ』みたいな情報を入れる。あと、昼だけはコピーを機能寄りにしすぎず……」

私は言葉を探した。

「『席がある』だけじゃなくて、『居場所がある』と伝えた方がいいと思います」

言った瞬間、またポエムを詠んだ気がした。

朝から会社で何を言っているのだ、藤代澄乃。
居場所がある。
急に人生相談みたいになった。

しかし榊課長は、笑わなかった。

「悪くない」

出た。

悪くない。

この人の「悪くない」は、砂漠で配られる水くらいありがたい。
ただし容器は鉄製で、受け取る時にちょっと手が痛い。