貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

会議室に残ったのは、私と榊課長だけだった。

大崎が出ていくとき、こちらに向かって「頑張って」という目をした。
声に出さないのが大人の優しさである。
ただし、目がかなりにやけていたので減点したい。

扉が閉まる。

静かになった会議室で、私はノートを胸元に抱えた。

「今日の発言」

「はい」

「続けろ」

「……はい?」

「今の方向でいい。次回までに、時間帯別の感情導線を整理してくれ。朝、昼、夜。それぞれ、入店前、注文時、滞在中、退店後」

「私が、ですか」

「他に誰がいる」

「真鍋さんの方が、デザインに落とし込みやすいのでは」

「真鍋は見える形にする。お前はその前の流れを組め」

流れを組む。

私はノートの表紙を指で押さえた。

「……課長」

「何だ」

「昨日の、あれが理由ですか」

「あれ?」

「あの、ネームです」

榊課長は、少しだけ沈黙した。

「理由のひとつではある」

やっぱり。

私は胃の石がひとつ増えるのを感じた。

「その……不快では、なかったんですか」

「何が」

「内容が」

「誰かに見せて回っているのか」

「いえ!」

「実在の人間をそのまま描いて、公開しているのか」

「していません。絶対にしていません。あれは、空気感というか、関係性の構図を借りているだけで、個人をそのまま消費するつもりはなくて」

榊課長は私の慌て方を見ても、笑わなかった。

「なら、俺が否定することではない」

「でも」

「藤代」

低い声が、まっすぐ落ちた。

「その絵を笑ってるんじゃない。使えると思ってる」

私は息をのんだ。

昨日も似たようなことを言われた。
けれど、今日はもっとはっきりしていた。

笑っているんじゃない。

使えると思っている。

「お前のネームには、視線の順番があった。近づきたいのに近づけない距離、言葉にしない信頼、相手の反応を待つ間。そういうものを、コマの流れで見せようとしていた」

やめてください。

分析しないでください。

恥ずかしさで内臓が全員会議室から退出しようとしている。

でも同時に、私は動けなかった。

榊課長は、私の描いたものを「変な趣味」として片づけなかった。
笑い話にもしなかった。
ただ、構造を見ていた。