貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

終業後、私は誰もいない会議室で、明日の資料を確認した。
リュミエールの売上データ。来店客アンケート。競合比較。店舗写真。
数字と文字の海の中に、朝、榊課長が言っていた「感情の入口」という言葉が浮かぶ。

お客様は、どんな気持ちで店に入るのか。
どんな関係で、誰と来るのか。
一人で逃げ込むのか。誰かと待ち合わせるのか。
そこで何を得たら、また来たいと思うのか。

私はノートの端に、小さく線を引いた。

朝。
昼。
夜。
ひとり。
ふたり。
仕事前。
帰宅前。

感情の流れを、コマ割りのように並べる。

気づくと、手が動いていた。

これは仕事だ。
漫画ではない。

でも、どこか似ている。

誰かの気持ちが動く瞬間を考えること。
そのために、順番を整えること。
見えない関係性を、見える形にすること。

私はペンを止めた。

怖い。
でも、少しだけ、楽しい。

会議室の扉が軽く叩かれた。

「藤代」

榊課長だった。

私は慌ててノートを閉じかけた。
でも、途中で手を止めた。

これは仕事のメモだ。
隠す必要は、ない。

「明日の確認か」

「はい」

「無理はするな」

「手は抜くな、では?」

「両方だ」

榊課長は短く言った。

それから、私のノートに視線を落とした。

「感情導線か」

「……まだ、メモです」

「悪くない」

その一言で、また胸が温かくなった。

私は困ってしまう。

この人は鬼上司のはずなのに。
私の秘密を知った、絶対に近づいてはいけない相手のはずなのに。

どうして、そんなふうに言うのだろう。

「明日、十時だ」

「はい」

「遅れるな」

「遅れません」

「ならいい」

榊課長はそれだけ言って、会議室を出ていった。

私はしばらく、閉じた扉を見つめていた。

バッグの中には、iPadがある。
昼休みの聖域で開いていた、私の秘密。
それを見られた相手と、明日から同じ案件に入る。

こんな展開、漫画でも少し強引だと思う。

でも現実は、たまに雑な脚本でこちらを殴ってくる。

私は会議招集メールをもう一度開いた。

参加者欄にある、自分の名前。
藤代澄乃。

逃げたい。
逃げたいけれど、ほんの少しだけ、見てみたい。

私の好きなものが、本当に弱み以外の何かになるのか。