貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

「藤代」

低い声が、部署の空気を一段冷やした。

「はい」

私は椅子から半分浮き上がりそうになりながら、即座に返事をした。

中堅の広告・販促会社、ブリッジワークス。
その営業推進部で、私はアシスタントとして働いている。藤代澄乃、三十二歳。勤務歴十年目。真面目で、丁寧で、地味めで、空気を読みすぎる女。

ちなみに、社内での私の評判は「頼めばきちんとやってくれる人」だ。

いい評価だと思う。
ただ、少しだけ寂しい。

「十時のレビュー資料。昨夜共有された最新版、反映されていない箇所がある」

声の主は、営業推進部課長、榊玲司。

うちの部署で「課長」と言えば、だいたい榊課長のことを指す。
三十六歳。冷静、有能、無表情。仕事に関して妥協という単語をお母さんのお腹に置いてきたような人。

黒いスーツはいつも皺ひとつなく、髪は乱れず、目線は鋭い。
会議で詰めるときは声を荒げない。荒げないのに、なぜか相手の背筋が伸びる。
鬼上司、と呼ばれている。

ただし、顔がいい。

顔がいい鬼は厄介だ。
鬼なのに、女子社員たちがうっとりする。
今日もコピー機の前で、総務の若い子たちが小声で囁いていた。

「榊課長、今日もかっこいい……」

「わかる。冷たいけど、そこがいい」

「叱られたい、ちょっとだけ」

わからなくはない。
でも、叱られる側に立つと「ちょっとだけ」では済まない。