貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

榊の胸元に額が近づく。

黒いスーツの匂い。
少しだけコーヒーの匂い。
昼の公園の木の匂い。

現実だ。

概念ではない。
コマの中ではない。
私が選んだ、現実の恋だ。

「澄乃」

名前を呼ばれた。

名字ではなく。

耳の奥が熱くなる。

「はい」

榊は、少しだけ身を屈めた。

私は目を閉じた。

触れるだけのキスだった。

ほんの短い。
風が葉を揺らす間より、少し長いくらい。

でも、私の人生の中では、確かにページがめくれた。

しらたまが「にゃ」と鳴いた。

現実への復帰音としては、完璧だった。

私は慌てて離れた。

「しらたまが」

「見ているな」

「見てます」

「口外はしないだろう」

「猫なので」

「ならいい」

いいのか。

榊は、ほんの少し耳が赤かった。

え。

耳が赤い。

榊玲司、耳が赤い。

これは国宝級の情報ではないだろうか。
いや、国宝にはできない。
国に提出したくない。
私だけが知っていたい。