貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

私は、膝の上の手を少し緩めた。

「私も、ずっと逃げていました」

榊が黙って私を見る。

「現実の恋が、怖かったんです」

言葉にすると、胸の奥にずっとあったものが形になっていく。

「物語なら、安全でした。誰かと誰かの距離を見て、台詞を考えて、ここで目を逸らす、ここで近づくって、コマに置ける。自分は外側にいられる」

榊は何も言わない。

ただ聞いている。

「でも、現実の恋は、コマ割りできません。次の台詞も分からないし、相手がどんな顔をするかも分からない。ページを閉じても終わらない」

私は、自分の声が少し震えるのを聞いた。

「好きなものを笑われた時から、ずっと思っていました。自分の中の熱を見せたら、相手の目が変わるって。好きなものを知られるのも、誰かを好きだと知られるのも、きっと同じくらい怖いんだって」

昔の教室。
机の上のノート。
軽い笑い。
「藤代って、もっと普通かと思ってた」

普通。

その言葉で、私はずっと自分を閉じてきた。

「だから、他人の恋を見ているだけなら安全だと思いました。自分は眺める側で、物語にする側で、誰かに選ばれることも、誰かを選ぶこともしなくていいって」

言い終えて、私は小さく息を吐いた。