貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

「……すみません」

「謝るな」

即答だった。

短い声。
でも、その短さに、胸が少しほどけた。

榊は、缶コーヒーを握る手に力を入れた。

「俺が先に言うべきだった」

私は顔を上げた。

榊は、まっすぐ私を見ていた。

「藤代」

「はい」

「俺は、逃げた」

その言葉は、驚くほど静かだった。

「立場を理由にした。君を守るためだと言える。噂を避けるためだとも言える。だが、本当は、嫉妬した自分を認めたくなかった」

息が止まった。

嫉妬。

その言葉が、榊の口から出るとは思わなかった。

「瀬名が君の言葉を引き出した。君が安心した顔をした。それを見て、腹が立った」

「榊さん」

「仕事としては、瀬名は正しいことをした。君を支えた。俺は評価すべきだった」

榊は、少しだけ目を伏せた。

「だが、俺は嫌だった」

胸の奥が、熱くなった。

それはきれいな言葉ではないかもしれない。
大人として正しい言葉でもないかもしれない。

でも、まっすぐだった。

この人は今、完璧な上司の顔ではなく、榊玲司として私の前にいる。

「距離を取ればいいと思った。上司と部下として正しく戻れば、君を傷つけないと思った」

「……傷つきました」

言った瞬間、自分でも驚いた。

私は、ちゃんと傷ついたと言った。

以前の私なら、「大丈夫です」と笑っていた。
内臓が泣いていても、顔には出さなかった。
誰かの正しさに傷ついても、自分が過剰に受け取っているだけだと飲み込んだ。

でも今は、言う。

榊は、目を逸らさなかった。

「悪かった」

短い謝罪だった。

でも、その短さに逃げはなかった。