貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

空が青い。
風が吹いている。
しらたまが毛づくろいをしている。

世界はこんなにも平和なのに、私だけが崖から落ちている。

「違います違います違います!」

「三回言った」

「違うからです!」

「声が大きい」

「すみません!」

私はiPadを抱きしめた。
今さら隠しても遅いのだが。

「これは、あの、趣味で。誰にも見せていませんし、投稿もしていませんし、会社の方をそのまま描いたわけでもありません。あくまで、関係性の、空気感の、創作で……」

「落ち着け」

「落ち着けません」

「だろうな」

榊課長は、ため息をついた。

そのため息が呆れなのか、困惑なのか、私には分からなかった。
でも、軽蔑ではなかった。

少なくとも、「気持ち悪い」と笑う顔ではなかった。

そこに気づいた瞬間、逆に泣きそうになった。
いや、泣いている場合ではない。泣いたらますます面倒な女になる。私は三十二歳の社会人。公園で上司に趣味バレして泣く女にはなりたくない。もう十分面倒な女になっている気もするけれど。

「藤代」

「はい……」

「誰にも言わない」

その言葉は、予想外にまっすぐだった。

私は顔を上げた。

「本当ですか」

「言ってどうする」

「どうする、とは」

「俺に利益がない」

「利益の問題なんですか」

「少なくとも、誰かの私的な趣味を社内で話題にする趣味はない」

その言い方は、榊課長らしかった。
やさしい、とは違う。
でも、乱暴に踏み込まない線引きがあった。