貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

「……私」

声がかすれた。

「すぐには、答えられません」

瀬名は、目を伏せなかった。

「はい」

「ごめんなさい」

「謝らないでください」

「でも」

「今すぐ答えてほしくて言ったわけじゃないです」

彼は、少しだけ笑った。

いつもの明るさに戻ろうとして、でも戻りきれない笑顔。

「本当は、今日言うつもりじゃなかったんです。でも先輩が前に出て、ちゃんと自分の言葉で話して、すごく嬉しくて」

感情が忙しい。

多忙すぎる。

本日、心の労働基準法は完全に崩壊している。

瀬名は、そっと手を伸ばした。

私の手首に触れる。

強く掴むのではなく、逃げられるくらいの力で。

それでも、熱が伝わった。

「逃げないでください」

その言葉は、これまで何度も聞いた。

仕事で。
資料で。
私の言葉で。

でも今は、意味が違う。

「返事は急ぎません。でも、なかったことにはしないでください」

私は、手首に触れた指を見た。

「……はい」

それが、今の私に言える精いっぱいだった。