貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

公園は、夜になると昼より少し静かだった。

街灯の下で、ベンチが薄く光っている。

しらたまは、今日は見当たらない。

よかった。

いや、何がよかったのか分からない。

瀬名は、いつものベンチの前で足を止めた。

「今日の先輩、すごかったです」

「ありがとうございます」

「褒められると逃げますよね」

「今、お礼を言いました」

「お礼で距離を取ってますよね」

痛い。

この後輩、言葉のナイフが鋭い。

しかも柄の部分が可愛いので油断する。

瀬名は、私の隣に立ったまま、夜の公園を見た。

「俺、先輩が案件に入る前から、けっこう見てました」

心臓が、少しだけ鳴った。

「……私を、ですか」

「はい」

瀬名は、軽く笑った。

でも、その横顔はいつもの明るさだけではなかった。

「俺が入社して最初に大きめの商談行った時、先輩、資料の最後に一枚だけ追加してくれたんです。先方が気にしそうな導入後の運用フロー」

「そんなこと、ありました?」

「あります。俺、めちゃくちゃ助かりました」

覚えていない。

いや、たぶんやった。

営業が困りそうなところを見つけて、資料に足した。

当時の私も、それは当たり前の補助だと思っていた。

「あと、俺がミスして落ち込んでた時、先輩、何も聞かずに議事録の修正版だけ送ってくれました。俺が先方に説明しやすいように、論点分けて」

「それは、仕事なので」

「そうやって言うところも見てました」

瀬名の声が、また少し低くなる。

「先輩は、自分がどれだけ人を助けてるか、全然分かってない」

私は、言葉に詰まった。

夜風が、公園の木を揺らした。

「今回の案件で急に見たわけじゃないです。秘密を知ったから近づいたわけでもないです」

秘密。

その言葉に、バッグの中のiPadが急に重くなる。

私は視線を落とした。

瀬名は、一歩こちらに近づいた。

近い。

でも、逃げられないほどではない。

逃げるかどうかを、私に選ばせる距離。

「秘密を握ってるからじゃない。俺、先輩だから見てます」

その言葉は、まっすぐだった。

けれど、少し不器用でもあった。

瀬名は、自分で苦笑した。

「……いや、変ですね。先輩だからっていうか、藤代澄乃さんだから見てます」

胸の奥が、きゅっと鳴った。

「瀬名くん」

「俺、先輩の見る力が好きです」

声が低い。

「人の迷いを笑わないところも。自分も怖いくせに、相手が安心できる言葉を探すところも。褒められると逃げるところも、本当は悔しいくらい真面目なところも」

やめてほしい。

そんなに見ないでほしい。

でも、見ていてくれたのだと思うと、胸が熱くなる。

「今日、先輩が前に出て話した時、嬉しかったです」

瀬名が私を見た。

いつもの犬系の笑顔は消えていた。

そこにいたのは、二十七歳の後輩ではなく、一人の男だった。