貴腐人の憂鬱――鬼上司と犬系後輩に、秘密を握られました――

「食べすぎるなよ」

低い声がした。

私は反射的に顔を上げた。

少し離れた自動販売機の横で、黒いスーツの男がしゃがんでいた。
その足元に、しらたまがいる。
男は小さな紙袋から何かを出しかけて、すぐに引っ込めた。

「駄目だ。たぶん、これは塩分が強い」

……誰?

いや、誰とか言っている場合ではない。

榊課長だった。

榊課長が、公園で、猫に話しかけている。
しかも声が、部署で聞く三割増しでやわらかい。

私は脳内で緊急会議を開いた。

議題一、榊課長は猫に話しかけるタイプだったのか。
議題二、声がやわらかすぎるのではないか。
議題三、そのギャップは私の精神衛生上よろしくないのではないか。

結論、撤退。

私は音を立てないようにiPadを閉じようとした。

その瞬間、しらたまが「にゃ」と鳴いた。
榊課長が顔を上げた。

目が合った。

「藤代?」

終わった。

部署の人が来ないから聖域だったのに。
よりによって、部署で一番来てはいけない人が来た。
これは聖域ではない。陥落した城である。