ゴン、と鈍い音がして観覧車が止まった。
頂上まで、あと少し――というところで。
安全確認のための一時停止だと、
ゴンドラ内のスピーカーが告げる。
窓ガラスが風にあおられて、細かく震えている。
足元から、じわりと不安がせり上がってくる。
「揺れてますね」
向かい側に座っている東雲さんは、
まるで気にしていないみたいに外を見ている。
「はい……」
私は、うなづくだけで精いっぱいだ。
今は景色を楽しむ余裕がない。
コートの袖口からのぞく、彼の腕時計に目がいく。
21時30分を過ぎたところ。
秒針が、やけにゆっくり進んでいる気がする。
視線を上げる。
――好きな人が、目の前にいる。
会社では、二人きりで話したことなんてない。
当然、私の気持ちを彼は知らない。
クリスマスのイルミネーションを、
一緒に眺めるなんて奇跡は、もうないと思う。
こんな状況じゃなければ良かったのに。
(ごめんなさい。
今は、地上の方が恋しいです……)
――ほんの数時間前。
私はまだ、彼とこんな距離になるなんて、思ってもいなかった。
✴
「皆さーん、グラスを持ちましたか~!?」
所属部署の上司、時任さん。
彼女の陽気な声とともに、
大小様々な飲み物グラスが持ち上がった。
「かんぱーい!」
軽やかな音とともに、グラスが打ち合わされる。
時任さんが私の隣に座ると、
笑顔でビールグラスをこちらに向けた。
「朝倉さんも楽しんでね~」
「はい!」
私は、ウーロン茶を持った右手をそっと伸ばす。
コツンと軽い音が鳴る。
今日は、異なる部署で集まった会社の飲み会。
お酒が飲めない私は、普段はこういう会に参加しない。
今回は、お世話になっている時任さんに誘われて、思い切って来てみた。
お鍋の取り分けをしながら、ぐるりと室内を見渡す。
二十人ほどがゆったり座れる和モダンな座敷。
壁の中央には金属製の時計があり、その針は19時を少し過ぎている。
その下で――
東雲さんが、同じ部署の人と話している。
色白の額の中央から、ふわりと分かれた黒髪。
整った目鼻立ちなのに、どこかあっさりとした印象。
淡いブルーのシャツからのぞく、細長い指。
その手には、ストロー付きのグラス。
(東雲さんも、ウーロン茶なんだ)
思わず、じっと見てしまう。
「!」
目が合って、慌ててお鍋に視線を戻す。
(見すぎたかも……!)
動揺して、豆腐が崩れた。
✴
東雲さんとは、同じフロアでも部署が違う。
私が入社して一年後、彼は別の事業所から異動してきた。
細身で、控えめな挨拶をする静かな人――
最初はそんな印象だった。
フロアの各所に複合機が設置されていて、
私のデスク近くの機械を彼はよく使う。
コピーに来るたび、時任さんが話しかける。
二人は以前、同じ部署だったらしい。
新入社員の頃の天然エピソードを面白おかしく語る時任さんに、
東雲さんは困ったように笑いながら応じる。
その笑顔に、胸がときめく。
二人の間に挟まるかたちで、私も会話に混ざる。
――といっても、相槌を打つくらいだけど。
それでも、彼のコピーが終わるまでの時間は、私には特別だった。
✴
飲み会がお開きになり、店の外に出る。
観覧車の前を通りかかったとき、時任さんが足を止めた。
娘さんに、観覧車からの夜景の写真を頼まれていたらしい。
けれど、お酒を飲んでいると利用できないと知り、
私たちにチケット代を押し付けて、
どこか満足そうに二次会へ行ってしまった。
観覧車の前に、二人で取り残される。
「せっかくだから、乗りましょうか」
苦笑しながら言うと、東雲さんは乗り場へ歩き出した。
✴
――今もまだ、観覧車が動かない。
沈黙が続く……。
チラリと東雲さんを見ると、彼は外を見つめたまま。
(私と一緒じゃ楽しくないよね……)
時任さんがいないと、会話が続かない。
何か、話したい。
……でも、言葉が出てこない。
ふと、彼の肩越しに見える別のゴンドラ。
カップルらしき後ろ姿。
(……え)
思わず息を止める。
(キス、してる……?)
慌てて視線を逸らした、その瞬間。
「?」
不思議そうに、東雲さんがこちらを見る。
そして、そのまま振り返ろうとする。
「わーーー! 待ってくださーいっ!!」
反射的に立ち上がってしまった。
「!?」
東雲さんは驚いた顔をする。
(ど、どうしよう!)
「わっ!」
慌てた勢いで、前に倒れそうになる。
「おっと、大丈夫!?」
「ご、ごめんなさいっ!」
気づいたら、東雲さんの両腕に支えられていた。
掴まれた部分がじんわり熱くなってくる。
焦りと気まずさでパニックになった。
たぶん、私の顔は外のイルミネーションよりも真っ赤だ。
頭をペコペコ下げて座りなおす。
不思議そうに、彼は私を見つめている。
「えーっと……」
(うわーん!)
(何か言わなくちゃ)
そこで閃いた。
「そ、そうだ!
――しりとり、しませんか!?」
ぱん、と手を打つ。
(何言ってるんだ、私は……)
あまりの苦し紛れに、自分で自分に呆れる。
けれど。
「いいですよ」
予想外に、彼は小さく笑いながらうなづいた。
✴
「からす」
「す、すなどけい」
「いす」
「す」
やたらと“す”が続く。
(わざと?)
さっきから、私をじわじわ追い詰めてくる。
余裕のある顔を向けられて、むっとしながら言葉を探す。
「す……す……」
焦るほど、何も浮かばない。
飲み会を思い出していたら、ちょうどいい言葉が浮かんだ。
口を開いた、その時――
――ガタン。
ゴンドラが揺れた。
「す! き……!」
驚いて、変なところで言葉を切ってしまう。
「え?」
彼は目を丸くした。
「……“好き”?」
(そんなこと、まだ……!)
「ち、違います! “すき焼き”ですよー!!」
思わず「飲み会で食べましたよね」と、
無駄な説明も加えてしまった。
慌てて言い直す私に、彼はくすっと笑った。
「やっと動きましたね」
くっついていたカップルも、少し離れていた。
ほっとして、思わず手を叩く。
その音に紛れて、彼が何かを言った気がした。
「……」
「え? 何か言いました?」
尋ねると、彼はチラリとこちらを見て。
「いや、何も?」
軽く首を振る。
でも。
その表情は、なんだか楽しそうだった。
✴
私たちのゴンドラが、ちょうど頂上に差しかかった。
東雲さんが窓の外を指差す。
「ほら見て。あっち」
「わぁ、すっごく綺麗ですね」
夜景が静かに広がっている。
イルミネーションの光が、ゆっくりと流れていく。
さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく。
観覧車は、静かに進み続ける。
ほんの少し前まで、早く降りたいと思っていたのに。
今は――。
(このままでいたい)
そんなふうに思ってしまう自分に、驚いた。
✴
地上に戻ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
それが妙に心地いい。
東雲さんが自販機で温かいココアを買ってくれた。
ベンチに並んで座る。
「それにしても……時任さん、無茶ぶりでしたね」
スマホを開いて、後で送る画像を確認した。
「時任さんと仲が良いよね」
ホットコーヒーを飲みながら東雲さんが言う。
「はい、すごくお世話になってます」
私はうなづいた。
「私のことを、娘にそっくりって言うんです。
娘さん、中学生ですよ? 一回りも歳が違うのに」
思い出して、吹き出してしまう。
「俺もよく、甥っ子みたいと言われたな」
私たちは笑い合った。
いつの間にか、お互いの最寄り駅や休日の話になって。
会社では知らない話が自然に続いていく。
(楽しい)
肩が触れ合うほどの距離に、照れくさくなってきた。
夜のおかげで、顔の熱もごまかせている気がした。
ライトアップされた観覧車を見上げる。
光がゆっくりと巡る。
まるで、大きな時計みたいだと思った。
「――時間、気になる?」
東雲さんが、のぞき込んできた。
あまりにも近くて、心臓が大げさに跳ねる。
首を振るしかできない。
東雲さんは体を戻した。
(心臓に悪い……!)
落ち着こうと、ココアを口にする。
じんわりと、暖かさが身に染み込んでいく。
「そういえば。東雲さんは、お酒飲まないんですか?」
「ああ」
少し間を置いて。
「朝倉さんも参加するって、聞いてたから」
(?)
「……えっと?」
それ以降、何も言わない。
彼も観覧車を見上げた。
横顔が、いつも以上に素敵に見えた。
「さっきの、しりとりなんだけど……」
「はい?」
首をかしげる。
「“すき焼き”の続き――」
一瞬、言葉を区切って。
「“キス”と、言おうと思ってた」
イタズラっぽい目でこちらを向く。
「!!!!!」
私の反応を見て、彼は肩を揺らして笑う。
「――そろそろ、帰ろうか」
東雲さんが立ち上がると、
コートのポケットからキーケースを取り出す。
「送るよ」
車の鍵がキラリと光った。
私の心臓は限界まで高鳴っている。
(これは、夢?)
片想いの距離が、近づいた気がする。
彼の背後で、観覧車が回っている。
さっき私たちが乗っていたゴンドラを探す。
(きっと、あれだ)
それは、頂点を越えていくところだった。
頂上まで、あと少し――というところで。
安全確認のための一時停止だと、
ゴンドラ内のスピーカーが告げる。
窓ガラスが風にあおられて、細かく震えている。
足元から、じわりと不安がせり上がってくる。
「揺れてますね」
向かい側に座っている東雲さんは、
まるで気にしていないみたいに外を見ている。
「はい……」
私は、うなづくだけで精いっぱいだ。
今は景色を楽しむ余裕がない。
コートの袖口からのぞく、彼の腕時計に目がいく。
21時30分を過ぎたところ。
秒針が、やけにゆっくり進んでいる気がする。
視線を上げる。
――好きな人が、目の前にいる。
会社では、二人きりで話したことなんてない。
当然、私の気持ちを彼は知らない。
クリスマスのイルミネーションを、
一緒に眺めるなんて奇跡は、もうないと思う。
こんな状況じゃなければ良かったのに。
(ごめんなさい。
今は、地上の方が恋しいです……)
――ほんの数時間前。
私はまだ、彼とこんな距離になるなんて、思ってもいなかった。
✴
「皆さーん、グラスを持ちましたか~!?」
所属部署の上司、時任さん。
彼女の陽気な声とともに、
大小様々な飲み物グラスが持ち上がった。
「かんぱーい!」
軽やかな音とともに、グラスが打ち合わされる。
時任さんが私の隣に座ると、
笑顔でビールグラスをこちらに向けた。
「朝倉さんも楽しんでね~」
「はい!」
私は、ウーロン茶を持った右手をそっと伸ばす。
コツンと軽い音が鳴る。
今日は、異なる部署で集まった会社の飲み会。
お酒が飲めない私は、普段はこういう会に参加しない。
今回は、お世話になっている時任さんに誘われて、思い切って来てみた。
お鍋の取り分けをしながら、ぐるりと室内を見渡す。
二十人ほどがゆったり座れる和モダンな座敷。
壁の中央には金属製の時計があり、その針は19時を少し過ぎている。
その下で――
東雲さんが、同じ部署の人と話している。
色白の額の中央から、ふわりと分かれた黒髪。
整った目鼻立ちなのに、どこかあっさりとした印象。
淡いブルーのシャツからのぞく、細長い指。
その手には、ストロー付きのグラス。
(東雲さんも、ウーロン茶なんだ)
思わず、じっと見てしまう。
「!」
目が合って、慌ててお鍋に視線を戻す。
(見すぎたかも……!)
動揺して、豆腐が崩れた。
✴
東雲さんとは、同じフロアでも部署が違う。
私が入社して一年後、彼は別の事業所から異動してきた。
細身で、控えめな挨拶をする静かな人――
最初はそんな印象だった。
フロアの各所に複合機が設置されていて、
私のデスク近くの機械を彼はよく使う。
コピーに来るたび、時任さんが話しかける。
二人は以前、同じ部署だったらしい。
新入社員の頃の天然エピソードを面白おかしく語る時任さんに、
東雲さんは困ったように笑いながら応じる。
その笑顔に、胸がときめく。
二人の間に挟まるかたちで、私も会話に混ざる。
――といっても、相槌を打つくらいだけど。
それでも、彼のコピーが終わるまでの時間は、私には特別だった。
✴
飲み会がお開きになり、店の外に出る。
観覧車の前を通りかかったとき、時任さんが足を止めた。
娘さんに、観覧車からの夜景の写真を頼まれていたらしい。
けれど、お酒を飲んでいると利用できないと知り、
私たちにチケット代を押し付けて、
どこか満足そうに二次会へ行ってしまった。
観覧車の前に、二人で取り残される。
「せっかくだから、乗りましょうか」
苦笑しながら言うと、東雲さんは乗り場へ歩き出した。
✴
――今もまだ、観覧車が動かない。
沈黙が続く……。
チラリと東雲さんを見ると、彼は外を見つめたまま。
(私と一緒じゃ楽しくないよね……)
時任さんがいないと、会話が続かない。
何か、話したい。
……でも、言葉が出てこない。
ふと、彼の肩越しに見える別のゴンドラ。
カップルらしき後ろ姿。
(……え)
思わず息を止める。
(キス、してる……?)
慌てて視線を逸らした、その瞬間。
「?」
不思議そうに、東雲さんがこちらを見る。
そして、そのまま振り返ろうとする。
「わーーー! 待ってくださーいっ!!」
反射的に立ち上がってしまった。
「!?」
東雲さんは驚いた顔をする。
(ど、どうしよう!)
「わっ!」
慌てた勢いで、前に倒れそうになる。
「おっと、大丈夫!?」
「ご、ごめんなさいっ!」
気づいたら、東雲さんの両腕に支えられていた。
掴まれた部分がじんわり熱くなってくる。
焦りと気まずさでパニックになった。
たぶん、私の顔は外のイルミネーションよりも真っ赤だ。
頭をペコペコ下げて座りなおす。
不思議そうに、彼は私を見つめている。
「えーっと……」
(うわーん!)
(何か言わなくちゃ)
そこで閃いた。
「そ、そうだ!
――しりとり、しませんか!?」
ぱん、と手を打つ。
(何言ってるんだ、私は……)
あまりの苦し紛れに、自分で自分に呆れる。
けれど。
「いいですよ」
予想外に、彼は小さく笑いながらうなづいた。
✴
「からす」
「す、すなどけい」
「いす」
「す」
やたらと“す”が続く。
(わざと?)
さっきから、私をじわじわ追い詰めてくる。
余裕のある顔を向けられて、むっとしながら言葉を探す。
「す……す……」
焦るほど、何も浮かばない。
飲み会を思い出していたら、ちょうどいい言葉が浮かんだ。
口を開いた、その時――
――ガタン。
ゴンドラが揺れた。
「す! き……!」
驚いて、変なところで言葉を切ってしまう。
「え?」
彼は目を丸くした。
「……“好き”?」
(そんなこと、まだ……!)
「ち、違います! “すき焼き”ですよー!!」
思わず「飲み会で食べましたよね」と、
無駄な説明も加えてしまった。
慌てて言い直す私に、彼はくすっと笑った。
「やっと動きましたね」
くっついていたカップルも、少し離れていた。
ほっとして、思わず手を叩く。
その音に紛れて、彼が何かを言った気がした。
「……」
「え? 何か言いました?」
尋ねると、彼はチラリとこちらを見て。
「いや、何も?」
軽く首を振る。
でも。
その表情は、なんだか楽しそうだった。
✴
私たちのゴンドラが、ちょうど頂上に差しかかった。
東雲さんが窓の外を指差す。
「ほら見て。あっち」
「わぁ、すっごく綺麗ですね」
夜景が静かに広がっている。
イルミネーションの光が、ゆっくりと流れていく。
さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく。
観覧車は、静かに進み続ける。
ほんの少し前まで、早く降りたいと思っていたのに。
今は――。
(このままでいたい)
そんなふうに思ってしまう自分に、驚いた。
✴
地上に戻ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
それが妙に心地いい。
東雲さんが自販機で温かいココアを買ってくれた。
ベンチに並んで座る。
「それにしても……時任さん、無茶ぶりでしたね」
スマホを開いて、後で送る画像を確認した。
「時任さんと仲が良いよね」
ホットコーヒーを飲みながら東雲さんが言う。
「はい、すごくお世話になってます」
私はうなづいた。
「私のことを、娘にそっくりって言うんです。
娘さん、中学生ですよ? 一回りも歳が違うのに」
思い出して、吹き出してしまう。
「俺もよく、甥っ子みたいと言われたな」
私たちは笑い合った。
いつの間にか、お互いの最寄り駅や休日の話になって。
会社では知らない話が自然に続いていく。
(楽しい)
肩が触れ合うほどの距離に、照れくさくなってきた。
夜のおかげで、顔の熱もごまかせている気がした。
ライトアップされた観覧車を見上げる。
光がゆっくりと巡る。
まるで、大きな時計みたいだと思った。
「――時間、気になる?」
東雲さんが、のぞき込んできた。
あまりにも近くて、心臓が大げさに跳ねる。
首を振るしかできない。
東雲さんは体を戻した。
(心臓に悪い……!)
落ち着こうと、ココアを口にする。
じんわりと、暖かさが身に染み込んでいく。
「そういえば。東雲さんは、お酒飲まないんですか?」
「ああ」
少し間を置いて。
「朝倉さんも参加するって、聞いてたから」
(?)
「……えっと?」
それ以降、何も言わない。
彼も観覧車を見上げた。
横顔が、いつも以上に素敵に見えた。
「さっきの、しりとりなんだけど……」
「はい?」
首をかしげる。
「“すき焼き”の続き――」
一瞬、言葉を区切って。
「“キス”と、言おうと思ってた」
イタズラっぽい目でこちらを向く。
「!!!!!」
私の反応を見て、彼は肩を揺らして笑う。
「――そろそろ、帰ろうか」
東雲さんが立ち上がると、
コートのポケットからキーケースを取り出す。
「送るよ」
車の鍵がキラリと光った。
私の心臓は限界まで高鳴っている。
(これは、夢?)
片想いの距離が、近づいた気がする。
彼の背後で、観覧車が回っている。
さっき私たちが乗っていたゴンドラを探す。
(きっと、あれだ)
それは、頂点を越えていくところだった。
