月と花のエレジア

 春の夜風が、白い花びらを運んでいた。

 フィオレリア王国──
 花と庭園に愛された、美しい国。

 その王城の大広間では今夜、
 ひとつの“婚約”が発表されようとしていた。

 「エルシア様、お顔色が…」

 侍女ノアが小さく眉を寄せる。

 鏡の前に座る少女は、
 淡い白紫の髪をゆるく結い、
 静かに微笑んだ。

 「大丈夫よ、ノア」

 けれどその声は、
 どこか儚かった。

 細い指先には、
 小さな震えがある。

 窓の外では白薔薇が揺れていた。

 ──今夜を越えれば、
 私はもう“フィオレリアの姫”だけではなくなる。

 「……怖いですか?」

 ノアの問いに、
 エルシアは少しだけ目を伏せる。

 「少しだけ」

 その時。

 コンコン、と扉が鳴った。

 「姉上!」

 飛び込んできたのは、
 金色の瞳を輝かせた少年──シエルだった。

 「まだ休んでなきゃ駄目だよ!」

 「シエル…」

 「ルナリアの王子なんか、
 僕はまだ認めてないからね!」

 その後ろから、
 深いため息が聞こえる。

 「お前は少し黙れ、シエル」

 現れたのは、
 第一王子レオニス。

 夜色の軍服を纏った青年は、
 エルシアを見るなり表情を和らげた。

 「……無理はするな」

 その一言だけだった。

 けれど、
 エルシアは知っている。

 兄がどれほど、
 この婚約に苦しんでいるのかを。

 「お兄様」

 「……」

 「私、大丈夫です」

 レオニスは答えなかった。

 代わりに、
 彼はそっとエルシアの頭に触れる。

 まるで壊れ物を扱うように。

 その時だった。

 王城の鐘が鳴り響く。

 婚約の時刻を告げる音。

 「──ルナリア王国第一王子、
 エリアス・ルナリア殿下のご到着です!」

 空気が変わった。

 フィオレリア王国と、
 月光の国ルナリア。

 長く続いた緊張関係。

 その和平の象徴として選ばれたのが、
 この婚約だった。

 エルシアは静かに立ち上がる。

 だが次の瞬間。

 ふらり、と身体が揺れた。

 「姉上!」

 シエルが駆け寄る。

 けれど倒れる寸前、
 誰かがその身体を支えた。

 ひやりとした、
 月光のような手。

 「……お気をつけください」

 低く静かな声。

 エルシアが顔を上げると、
 そこには白銀の髪の青年がいた。

 青い瞳は、
 月夜の湖みたいに静かだった。

 ──この人が。

 ルナリア王国第一王子。

 エリアス・ルナリア。

 「……初めまして、
 エルシア姫」

 その瞬間。

 エルシアの周囲に、
 白い花がふわりと舞った。

 まるで、
 彼を歓迎するみたいに。