名古屋の空に、もう一度だけ君の名を呼ぶ

 その日の夜のうちに、僕は結局、返信をした。
 それから、短いメッセージのやり取りが、いくつか続いた。

 理香は名古屋に戻ったばかりで、今は仕事を探しているという。
 たまたま僕の勤め先の人事担当に知り合いがいたので、僕は形ばかりの助けを申し出た。

 数日後、彼女からまた連絡があった。
 仕事の件のお礼に、食事をご馳走したいという。

 僕はスマホの画面をしばらく見つめたあと、ゆっくりと返信を打った。
 ――結局、承諾した。

 僕たちは栄駅からほど近い、小さなカフェで会うことにした。

 その日の午後、僕は少し早めに店に着いた。
 カフェはそれほど広くなく、窓際に木製のテーブルがいくつか並んでいる。
 淹れたてのコーヒーの香りが室内に満ち、カウンターの奥からはエスプレッソマシンの低い音が響いていた。

 僕は窓際の席を選んだ。
 そこからは、駅を行き来する人々がよく見える。

 ヨレヨレのスーツを着た会社員。
 バッグを抱えて笑い合う学生たち。
 肩を寄せて歩くカップル。

 今の理香は、一体どんな風に変わっているんだろう。

 まともに言葉を交わしてから、もう何年も経っている。

 カフェの扉が開いたとき、僕は反射的に顔を上げた。

 入り口に、一人の女性が立っていた。

 髪は、記憶より少し短い。
 薄手のダークカラーのコート。肩には小さなバッグ。

 視線が合った。

 数秒。
 僕たちは、ただ見つめ合った。

 本当に、あの頃の彼女なのか。
 お互いに確かめ合うような、そんな沈黙だった。

 やがて理香が、小さく微笑んだ。
 そのまま、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「久しぶり」

 静かな声だった。

「ああ」

 僕は短く頷いた。

 理香は向かいの椅子を引き、腰を下ろした。

 最初の数秒。
 ひどく気まずい空気が流れる。

 僕たちは二人とも、読む気もないメニューを開き、視線を落とした。

「仕事の件、助けてくれてありがとう」

 ようやく彼女が口を開いた。

「うまくいくとは限らないよ。ただの紹介だから」

「それでも、助かったわ」

 彼女は小さく笑った。

 店員がやってきて、僕たちはコーヒーを注文する。
 店員が去ると、会話は少しずつ動き出した。

 けれど――どこか慎重さが残っている。

 理香は東京での生活を、少しだけ話してくれた。
 大学のこと。住んでいた狭いアパートのこと。
 朝の通勤ラッシュの凄まじさ。

 僕も名古屋での仕事の話をした。
 変わり映えのしないオフィス。
 印象も残さず過ぎていくプロジェクト。

 ときどき、小さな笑い声が混じる。

 けれど、会話の端にはいつも――空白があった。

 何かが浮かびかけては、言葉になる前に沈んでいく。
 そんな感覚。

 カフェの隅のスピーカーから、古い曲が流れ始めた。

 それが、放課後によく二人で聴いていた曲だと気づくまでに、少し時間がかかった。

 胸の奥が、わずかに締めつけられる。

 理香も気づいているだろうか。

 彼女は、変わらず話を続けている。
 僕は相槌を打つ。

 気づいていないのか。
 それとも――気づかないふりをしているのか。

 分からなかった。

 今の彼女には、昔とは違う「何か」がある。

 すぐには言葉にできない、わずかな違和感。

 笑い方は変わらない。
 けれど――その前に、一瞬の「間」がある。

 考えてから笑っているような、そんなわずかな遅れ。

 向かい合って座って、初めて気づいた。

 今の彼女のことを、僕はほとんど知らない。

 しばらくして、会話のテンポがまた落ちていった。
 カップの中のコーヒーは、もうほとんど残っていない。

 窓の外では、人々が変わらず行き交っている。

 まるで、何も変わっていないかのように。

 理香はカップの中のスプーンを回し、ふと手を止めた。

「実はね、あの会社から連絡があったの」

 僕はわずかに眉を上げる。

「そうか」

「採用だって」

 小さな安堵が胸に広がった。

「それは、良かったじゃないか」

 理香は微かに笑った。
 けれど、その笑みはすぐに消えた。

「でも、希望していた職種じゃなかったの」

 彼女は続ける。

「そのポジションはもう埋まっていて、別の職種ならどうかって」

 僕は静かに頷いた。

「それで?」

 理香は、コーヒーの表面を見つめたまま――

「……断ったわ」

 一瞬、言葉が出なかった。

 理解はできる。
 でも、胸の奥に残る感情は、うまく整理できない。

「合わないと思ったなら、それが正解なんだろうな」

 ようやくそう言った。

 理香は小さく頷く。

「私も、そう思ったの」

 その声は、どこか自分に言い聞かせているようだった。

 数秒、沈黙。

 遠くで電車の音が、かすかに響く。

 理香は静かに息を吸った。

「……少し、疲れたのかも」

 詳しくは語らなかった。

 けれど、なぜか分かる気がした。

 仕事だけじゃない。
 その言葉に含まれていない、いくつもの出来事。

 理香は窓の外を見て、それからまた僕を見た。

「少しだけ、この喧騒から離れたいな」

 そして――

「ねえ、京都に行かない?」

 唐突だった。

 本当に、思いつきのように。

 僕は数秒、彼女を見つめた。

 「京都」という言葉が、いくつもの記憶を引き出す。

「いいのか?」

 理香は、さっきより少し柔らかく微笑んだ。

「お礼よ。手伝ってくれたことの」

 そして、少しだけ間を置いて――

「それに……私も、少し休みが必要だから」

 僕は彼女を見つめた。

 断るべきだと思った。
 距離を保つべきだ、と。

 けれど――

「……分かった。いいよ」

 口にしたのは、別の言葉だった。