名古屋の空に、もう一度だけ君の名を呼ぶ

 そのメッセージが届いたのは、すべてが終わったと思い込んでから、もう何年も経った後のことだった。

 デスクの上で、スマホが静かに震えた。

 仕事用のグループチャットだろう。
 そう思いながら、僕は一度パソコンの画面に目を戻した。

 けれど――

 ふと灯った画面に表示された「名前」を見た瞬間、指が止まった。

 ――理香。

 もう二度と、現れるはずのない名前だと思っていた。

 オフィスの窓の外では、名古屋の空がゆっくりと色を変え始めている。
 夕闇が降りてきて、ビルの隙間に鈍い橙を落としていた。

 遠くから、機械の低い唸りが絶え間なく続いている。
 耳に馴染んだその音が、なぜか今日は少しだけ違って聞こえた。

 画面に浮かんだその名前ひとつで――
 閉じていた何かが、わずかに軋んだ。

 古い扉が、内側から押し開けられるような感覚。

 ほんのわずかな隙間。
 それだけで、埃と一緒に、記憶が流れ込んでくる。

 最初に浮かんできたのは――

 ある夜のことだった。

 点けたままのリビングの明かり。
 そして、届かなかったバースデーケーキ。

 高校生の頃、僕たちはほんの短い間だけ、恋人同士だった。

 二ヶ月。
 たった、それだけの時間。

 特別な場所へ行った記憶はない。
 放課後、駅の周りを歩いた。

 コンビニでおにぎりを買って、
 自販機の横のベンチに座る。

 イヤホンを片方ずつ分け合うこともあった。
 何も話さず、通り過ぎる電車を見ていることもあった。

 どれも、当時は何でもないことだった。

 けれど――
 その二ヶ月は、その後のどの時間よりも長く残っている。

 今でも、はっきり覚えている一日がある。

 僕の誕生日だ。

 その日の夜、理香は僕の家に来る約束をしていた。
 駅前で小さなケーキを買っていく、と。

 一緒にキャンドルに火を灯す。
 ただ、それだけの約束。

 僕は待っていた。

 壁の時計が、静かに針を進める。

 八時十分。

 僕はリビングに座ったまま、
 時折、玄関の方へ視線を向けた。

 八時三十分。

 一度立ち上がり、窓の外を見て、また座り直す。

 明かりは、点いたまま。
 携帯は、鳴らない。

 画面を開く。
 閉じる。
 もう一度、開く。

 ――何もない。

 時間だけが過ぎていく。

 いつからか、時計を見るのをやめていた。

 待っていたのは、音だった。

 ドアベル。
 あるいは、足音。

 けれど――

 夜は、何も残さないまま深くなっていく。

 メッセージも、ノックも来ない。

 約束されていたケーキが、届くこともなかった。

 翌日、クラスメイトから話を聞いた。

 昨夜、理香が街で「隼人」と一緒にいたらしい。

 バイト先のカフェのオーナーの息子。
 一つ年上で、いつも余裕のある男。

 カウンターの向こうで笑っていた姿が、ふと頭に浮かぶ。

 その話を聞いたとき、
 自分が何を感じているのか、よく分からなかった。

 ただ、何かが静かに終わった気がした。

 それでも、不思議なことに――
 僕たちの間に言い争いは起きなかった。

 何もなかったかのように、日常が続いた。

 同じ教室にいて、
 けれど、何かだけが確実に変わっていた。

 それを言葉にすることは、最後までなかった。

 一緒に帰ることはなくなり、
 廊下で短い挨拶を交わすだけになる。

 それぞれ、別の方向へ歩いていく。

 あの二ヶ月は、最初からなかったことにする。
 そんな暗黙の了解があった。

 数ヶ月後、理香は東京へ引っ越した。

 親の都合で、進学校に転校するらしい。

 最後の日。

 放課後の校庭は、別れを惜しむ声で満ちていた。

 校門の近くで立っていると、
 理香がこちらへ歩いてきた。

 数秒。

 僕たちは、ただ見つめ合った。

 言うべきことは、いくらでもあったはずなのに。
 どこから話せばいいのか、分からなかった。

 理香の唇が、わずかに動く。
 けれど、言葉にはならない。

 そして――

「……ごめん」

 それだけだった。

 彼女は背を向け、そのまま車へ向かう。

 僕は、車が見えなくなるまで、そこに立っていた。

 あの日から、時間は変わらず流れた。

 僕は大学進学で京都へ行き、理香は東京で新しい生活を始めた。

 同窓会で顔を合わせることはあっても、
 会話はいつも、どこかぎこちなかった。

 かつて近かった距離は、
 もう測れないほど遠くなっていた。

 関係が完全に切れたわけではない。
 けれど、戻ることもなかった。

 そして今――

 何年も経ってから、
 スマホの画面にその名前が再び現れた。

 メッセージは短い。

 大学を卒業し、仕事を探すために名古屋へ戻るという。

 僕はそれを二度読み返した。

 それから、スマホを静かにデスクに置く。

 窓の外では、夜が深くなっていた。
 街の灯りが、ひとつ、またひとつと増えていく。

 ガラスに映る光が、どこか遠く感じられた。

 キーボードの横に、スマホがある。

 返信は――まだ、打っていない。