キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
あれから三日が経っても、相変わらず怜は忙しいようだった。
夕飯の時にくっつかれたりキスをされることはあっても、触れるだけのものが数回あるだけだった。

それに少しだけ物足りないような気持ちになるも、先日のソファのことを思い出すと、楓から何かを言う勇気はなかった。



楓は早めの夕飯の準備をしながら、つけっぱなしになっているテレビを見つめた。
流れてくるニュース映像に、思わず声が漏れる。

「わ、すごい…」

外は、季節外れの冷たい大雨が窓を叩いている。
テレビのL字画面には、目黒川の氾濫危険水位を示す赤い文字と、都内数千世帯が停電しているというニュースが流れていた。

『現在、関東地方では急速に発達した低気圧の影響で大雨警報と洪水注意報が発令されており、東京電力によりますと、停電の原因は、落雷による変電所の設備トラブルとみられており——』

流れてくるアナウンサーの声と、雨が激しく打ちつける駅の様子。
楓は思わず白菜を切る手を止めて、画面を見つめた。

昼過ぎから雨足が強まり、交通機関が遅延し始めた。
楓は出勤していたが、受講者からの欠席連絡も相次いだため、昼からのレッスンは中止になった。
受講者全員に連絡を取った後、ひどくなる前にと帰宅指示が出て、十五時ごろには楓も帰宅していた。


『——なお、気温が急激に低下しており、今夜未明にはみぞれや雪に変わる恐れもあります』

そう言って締め括ったアナウンサーが映った画面が、また別の場所からの大雨の映像に切り替わった。


帰る頃には雨足は強く、びしょ濡れになった楓は、すぐに風呂に入っていた。

さすがに心配したらしい怜が、楓が帰宅した時だけは部屋から顔を出した。
焦った様子でタオルを渡し、「ちゃんと湯船に浸かって体冷やすなよ」と言って、また部屋に戻っていった。

「早めにご飯炊いておいて良かったかも…」

楓は切った白菜に豚バラ肉を挟んで、鍋に入れた。
品数少なく怜がサッと食べられるようにと、今日はミルフィーユ鍋にしようと思っていたが、正解だった。
米はもう炊けているし、これをしばらく火にかけていれば完成だ。

外からは雷の音と光が先ほどよりも強くなっていて、雨の音も心なしか激しくなっている気がする。
火にかけたミルフィーユ鍋が、次第に火が通ってぐつぐつと鍋の蓋を揺らし始める。

「怜ちゃんの明日のお昼はどうしようかな…」

冷蔵庫を開けた楓が、冷凍の鶏ミンチのパックを取り出した。
これでそぼろ丼にしておけば、簡単に食べられるだろう。



そう思った途端、バツン、と重い音がして、部屋が暗くなった。


「わっ」


換気扇の音も、冷蔵庫のモーター音も、一瞬ですべてが途絶える。
その一瞬、手元のガスコンロから立ち上る青白い炎が揺らいで、暗くなったキッチンのコンロ台が鋭く浮かび上がった。

さっきまでの音が全て消えて、代わりに窓を叩く雨と雷の音だけがリビングに響いた。
楓は慌ててコンロの火を消した。


「楓、大丈夫?」

ポケットに入っていたスマホを取り出してライトをつけると、リビングの扉がガチャリと開いた。
同じようにスマホのライトで照らしながら怜が扉からリビングを覗いていて、楓を照らして見つけると手招きした。

「おいで、怖いでしょ」
「うん…怜ちゃんは、データとか大丈夫…?」

スマホのライトで足元を照らしながら怜の元へ向かうと、手を引かれてソファに座らされた。
電池が勿体ないと思ってライトを消すと、怜も同じように消した。

「うん、パソコンはバッテリーで一応生きてるから。切れたら終わるから作業はできないけど」
「良かったね」
「ふ、俺のことはいいよ、ありがと。楓は大丈夫だった?ご飯作ってたんでしょ、怪我とか」
「うん、大丈夫」

部屋は真っ暗で、ベランダの窓ガラスがレースカーテン越しに、たまに雷の光だけを通していく。

「他にも停電してるところあるって。さっきまでテレビでやってた」
「じゃあ長引くかもなー、どんどん酷くなってるし」

不安からネットニュースなどを見たくなるが、原因が分かっているのだから、いつか復旧するだろう。
暖房が切れたためか少しだけ部屋が寒くなり、思わず部屋着越しの腕を擦った。
隣に座っていた怜が、もそもそとブランケットを探り当て、楓に寄越した。

「一緒に入ろ、怜ちゃんも寒いでしょ」
「…うん」

ブランケットを広げて自分と怜の膝を覆うと、その中に収まるようにと自然と距離が近くなる。
逃げていく体温が狭い生地の中にせき止められ、じんわりとした熱に変わる。
怜の膝がトン、と触れた。

「…怜ちゃんは、なんでそんなに仕事してるの」
「んーまぁ、お金があったら選択肢が広がるって思ってるから?」

前もそう言ってたな、と楓は先日のレストランでの会話を思い出す。
そんなにお金に困ってきたわけでもなく、怜の父の稼ぎも良かったはずだ。

「なんの選択肢?」

何かやりたいことでもあるのかな。そう思って何気なく聞いた。
怜はしばらく黙った後、ふっと微かに笑いながら言った。


「……楓だけ連れて、どっかに逃げるとか」


冗談に聞こえるような、でもいつもより、少しだけ低い声だった。


「…え、私?…逃げる…ってなに…?」

自分の名前が出てくるとは思わず、楓は暗がりで怜を見つめた。
ぼんやりと輪郭しか分からない中では、どんな顔をしているのか分からない。


「…俺はたまに、兄妹ってこと忘れたくなるんだよね……」


怜が静かに、そう言った。
さっきより、小さな声だった。

怜はソファの背もたれに、だらりと頭ごと、もたれかかっている。
腕で目元を覆うようにしていて、その声色から冗談ではなさそうだった。

窓を叩く大雨の音が、暗いリビングの天井に微かに反響している。


雷が鳴って、しばらくどちらも喋らなかった。
なんと返せばいいのか、どういうつもりの言葉なのか、分からなかった。


「ど…うしたの」


しばらくあった静寂の後、楓が小さく聞いた。
怜は少しだけ黙って、微かにため息を吐いた。

「ん、いや…なんでもない、冗談っていうかそんなことしないよ。仕事はまぁ、最初はそんなことなかったけど、やった分数字とか金銭とかで結果が見えるのは好きだし…余裕があったら旅行とかもたくさん行けるでしょ」

誤魔化すようにつらつらと告げられた言葉は、怜にしては説明的だなと思った。
いまいち納得できなくて楓がまだ黙ったままでいた。

すると怜がふっと笑って「ほんとに冗談だから」と言って、楓の肩を引き寄せた。

「…ほんとに?」
「本当。けど疲れてるのかも。変なこと言った、忘れて」

雷の光が室内を一瞬だけ明るく照らした。
怜の肩に抱き寄せられている体勢では、その表情は見えなかった。

「そりゃ、あんなに仕事してるんだもん…疲れてるよ…もっと休んで」
「うん、今久々にゆっくりしてるかも…」

怜の声が柔らかくて、少しだけ安心した。

リビング全体が白刃で切り裂かれたように真っ白くフラッシュし、引き寄せられた怜の首筋のラインが楓の網膜に一瞬だけ焼き付く。
そのすぐ後に轟音が空から鳴り響き、あまりの音の大きさに思わず身体が跳ねた。

楓は、怜のTシャツを思わずくしゃりと手のひらで掴んだ。
着古された柔らかい生地が、指の間で小さく音を立てた。

「怖い?」
「だいじょうぶ…」

怜が楓の顔を覗き込むようにして見た。
少しずつ慣れてきた目が、その瞳をとらえた。


あ、近い、かも。