最近の怜ちゃんはとても忙しそうだ。
毎日のように夜遅くまで仕事をしていて、朝起こしてもしんどそうなことが増えてきた。
気を遣って起こさないようにして家を出ると、朝は顔を合わせない。
家にいると気が散るかなと思い、楓も休みの日は出かけるようにしていた。
怜も夕飯はできるだけ一緒に食べようとしてくれていた。
けれどミーティングが入ったり、食べた後もすぐに部屋に戻っていったりしてしまう。
今日も土曜なのに、一日部屋にこもっていたようで、楓が仕事から帰ってきてもリビングもキッチンも使った気配がなかった。
お昼用にと楓が用意しておいた、おにぎりとおかずを入れたタッパーだけが、洗って水切りカゴに伏せられていた。
「大丈夫?寝てる?」
「うーん、ぼちぼち」
夕飯時、楓が遠慮がちに話しかけると、怜が眉を顰めながら答えた。
夕飯を食べていてもぼうっと違うことを考えているようだった。
邪魔になるかなと楓もいつものようにたくさん話しかけることはしなくなっていた。
もしかしたら夕飯も、無理して時間を取ってくれているのかもしれないなと思うと、
何も言えなかった。
何か考え込んだ様子のまま、炊き込みご飯をつまむ怜に、楓が聞いた。
「なんでそんなに忙しくなったの?」
「んー…会社から急に別案件の臨時マネージャーを振られたのと、あとはスポット…単発依頼だったアパレルが顧問契約結びたいって話になって、急にグランドデザイン…年間戦略の骨組みみたいなものを作ることになって」
また難しい話でよく理解はできないが、怜の疲れ具合は社会人一、二年目の激務を思わせた。
相当大変なんだろうなと楓は頷いた。
「…大変そうだね?アパレルの方は副業なんだよね?」
「うーん…そうなんだけどまぁ付き合いも長いから愛着もあるし、スキルアップもできるしな…収入も上がるし」
そう言って食べ終えた怜が「ごちそうさま、美味しかった」と手を合わせた。
いつもより少なめによそったが、お代わりすることもない。
楓も急いで残っていた焼き魚を口に運び、食器を持って怜が移動したキッチンへと追いかけた。
「いいよ、私、洗っとくよ?」
「んー…じゃあ、お願い」
「うん」
怜がそう言って離れた。
そのまま部屋に戻るのかと思えば、シンクの前に立つ楓を、ふわりと後ろから抱きしめた。
「ど、どうしたの」
「ここんとこ全然楓に触ってない」
「触っ…」
直接的な言い方に動揺はしたが、それは楓も思っていたことだ。
仕事が忙しいことも、頑張っていることも伝わってくる中で寂しいだなんて、物分かりの悪いことを言う彼女になりたくなかった。
でもやっぱり、寂しかった。
まだ付き合って一ヶ月も経ってないのに。
夜の遊歩道から、一週間くらいしか経っていないのに。
「さっき収入も増えるって言ってたけどさ、もう怜ちゃん充分稼いでるんじゃないの?」
「別に困ってるとかではないけど、お金はあったほうがいいでしょ」
「そうだけど…」
「選択肢が増えるし」
怜が楓の背中に顔を擦り付けるようにして話す。
身体の中に直接音が篭るような感覚がして、部屋着のスウェット越しの息がほんのり温かい。
怜の言うことはもっともだが、楓としては身体を優先してほしいところだ。
ただ生活の面でも、怜には金銭的な負担をしてもらっているので、そこについては触れづらい。
「ちょっと今日は早く寝るとかできないの?」
「二十一時から会議あるし…」
怜の言葉に時計を見ると、まだ十八時半だった。
楓は洗い終わった食器をお湯で流し、水切りカゴに入れていく。
「まだ二時間半あるよ?」
「資料作んないといけないから」
蛇口を下げると、水の音が止まってリビングが急に静かになった。
楓は手を拭いて、身体をひねって背中にもたれかかったままの怜の顔を見た。
背中越しに伝わってくる怜の胸の厚みと、規則正しい呼吸が、くすぐったい。
なんだか、甘えているみたいで可愛い。
これが母性本能みたいなものなんだろうか、などと思いながら、怜の方に向き直った。
「仕事したくねー…ねみー…」
怜の背中に手を回すと、嘆くように言った怜が体重をかけてきた。
「わっ」
身体が大きく反った。
バランスを崩しそうになりながらも、シンクに体重をかけて、怜の頭を撫でた。
「ちょっとだけ仮眠とったら?三十分だけとか」
「んー」
「三十分くらいなら、何だっけ、あのー…何とか睡眠のアレでちょっと脳がスッキリするみたいなやつあるじゃん!」
「なにその曖昧すぎる雑学、何も分かんないし」
怜がふっと息が抜けたように笑って、触れている肩に息がかかった。
笑ってくれたことが嬉しくて、ソファを指差しながら楓が提案する。
「ね、ちょっとだけ寝よ、ベッドだと起きれないかもだからソファとかで」
「…じゃあ楓が膝枕してよ。そんで三十分で起こして」
「エッ、い、いいけど」
怜が満足そうに口角を上げて身体を離し、楓の手を引いてソファに連れて行った。
さっきまで寝るのを渋っていたくせに、膝枕とか急に思いついたからって、なんか積極的になってさ。
「ど、どうぞ…」
「どうも。三十分で起こしてね、それか一緒に寝る?」
「そしたら起こせないじゃん…」
ソファにゆっくり座った楓の膝に、怜がゴロンと寝転がった。
ずしりと温かい重みを感じて、楓が「硬い?枕いる?」と聞くと、「膝じゃないと意味ないじゃん」と怜が言った。
何の意味がないのかよく分からないが、そこを突っ込むとややこしくなりそうなので反応するのはやめた。
「……頭、撫でてもいい?」
「うん」
大人しく膝で目を瞑る怜が可愛くて、なんだか愛おしかった。
セットされていない髪はサラサラで、生え癖に沿ってなぞるように撫でた。
髪の毛の柔らかさを指先に感じながら、しばらく撫で続けた。
目を閉じた怜の顔をじっと見つめていると、その目が急にぱちりと開いた。
「ふっ、見すぎ」
「ご、ごめん」
怜がゆっくりと手を伸ばして、楓の頬をさらりと撫でた。
長い指先が、微かに耳元を掠めた。
「っ」
鼓膜に響いた指先の掠れた音とくすぐったさに、思わず目をつぶって身体を捩った。
少しの間、怜の中指が耳の入り口に触れていた。
指先が耳の輪郭をなぞるたび、皮膚が擦れ合う細かな摩擦音が、頭の芯に直接響く。
動くたびにがさりと鳴る音に、身体をすくめていた。
「…頭、下げて」
頬に触れていた怜の手に力が入って、それに従うように背中を丸めて、顔を怜に近づけた。
少しだけ上体を起こした怜と、ゆっくりと唇を合わせた。
テレビもついていない静かなリビングに、微かなリップ音だけが聞こえる。
ちゅっ、ちゅっと軽い音だったはずなのに、一度も離れない唇が、互いに侵食を始める。
しばらくして怜が身体を完全に起こし、真剣な顔のまま再び唇が触れた。
次第に体勢が押されていき、楓の背中はソファのアームと、そこに置かれたクッションにもたれていく。
上からは怜の唇が降ってきていて、背中はソファでこれ以上身体が引けない。
頭上のシーリングライトの強い光が、怜の広い肩の影に遮られて急に視界から消える。
「ん、っ」
背中に回った怜の手が、たまにぴくりと動く。
スウェットを掴むように置かれている手が、熱い。
背中に押し当てられているクッションの柔らかな感触が、背骨を圧迫していくようだ。
「れい、ちゃ、」
「うん」
舌が動く合間に、熱い息がこぼれていく。
いつの間にか完全に押し倒されたような姿勢で、怜が身体に覆い被さっていた。
そういえば、最近はキスもちゃんとしてなかった。
あの時は、あんなにしたのに。
「すき、」
「うん」
背中に回った怜の手に、ぐっと力が入ったような気がした。
決してその場から動かない手が、なぜだかもどかしい。
身体に力が入って、息が燃えるように熱い。
一瞬だけ離れた怜の唇が、ふうっと頬へ、耳へと移動した。
「…かえで」
湿った唇が、耳たぶのすぐ後ろの柔らかな皮膚に触れた。
低い声の振動が、直接びりびりと鼓膜の奥へと突き抜けていく。
その息の熱さに、身体が跳ねるように強張った。
それまで必死に我慢していた声が、小さく空気を震わせて漏れ出した。
「、ぁっ」
「っ」
それから逃れたくて思わず、自分の肩に耳を擦り付けるように顔をよじると、怜が急に身体を起こした。
急に明るくなった視界と離れていった熱に、楓が怜を見上げた。
リビングの照明が明るくて、思わず目を細めた。
逆光で怜の表情が見えづらかった。
でもその顔は、戸惑っているように見えた。
「怜ちゃ…」
「ありがと、……回復した。仕事戻んなきゃ」
怜がふっと笑って、楓の頬を指先ですりっと優しく撫でた。
そっと腕を引いてくれて、身体を起こされた。
怜はそのままリビングを出て行き、背後でパタンと静かにドアが閉まる音が響いた。
静かなリビングに、微かな暖房の稼働音だけが取り残される。
急に引いた熱に少しだけどうしたらいいか分からなかった。
時計を見ると十五分ほど経っていて、そんなに長い間キスしていたんだと、身体がどくりと疼いた。
どうして、止めたのかな。
怜ちゃんは、その先のことも、考えてるのかな。
そういうことしたいって、思ってくれてるのかな。
私、なんか、変だった?
どうしよう、こんなことを考える自分がいるなんて、思いもしなかった。
ねぇ、まだ部屋に戻んないでよ、あと十五分、一緒にいたかったよ。



