キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
「怜ちゃん朝だよー起きてー」


楓の声が遠くから聞こえてきて、意識がふわりと持ち上がった。
昨日は夜遅くまでパソコンに向き合っていて、目の奥が疲れている。

三浦が持ってきてくれた和菓子屋の案件が決まり、坪単価と回転率のシミュレーション、新規客を引き込むための空間設計、SNSの拡散ロジックの構築…。
脳の容量を全部仕事に振って、深夜にようやく終わらせた反動が、今になって一気にきている。

「まだ寝る?昨日も遅くまでやってたもんね」
「おきる…」

ただそれは副業なので、会社の仕事は今日もあって、十時からのミーティングに備えて色々とまとめなければいけない。

分かっているのになかなか目が開かない。
楓の気配がすぐそこにあって、温かい布団に引き摺り込みたくなる衝動が芽生える。

「ふふ、じゃあ一緒に寝よっかー」

寝ぼけた頭でそれを理解するのには時間がかかって、文章の意味を認識した時には、ゴソゴソと楓が布団の中に潜り込んでいた。


自分ではない足がふっと太ももに当たって、少し冷えた足先が足の甲に触れる。
スウェットの裾から覗く楓の素肌の、ひんやりとした滑らかな手触りがダイレクトに伝わり、固まっていた脳の芯が跳ねるように覚醒していく。

「昔も一緒に寝たことあるよねー。勉強教えてくれてた怜ちゃんがさ、寝落ちしちゃっててさー」

楓が俺の胸元に擦り寄ってきて、ふふっと楽しそうに笑いながら思い出話をする。
それをそうだなと返す余裕もなく、ぱちりと開いた目が楓の後頭部をとらえる。

「私も隣で寝ちゃってさー、そのあと怜ちゃんだけ風邪引いたんだよね、ふふ、あれなんでだろうね?」
「……」

ふわりとシャンプーの香りが寝起きの鼻腔をくすぐって、本能がやばいと一気に警鐘を鳴らした。

「楓、楓。もう起きた」
「起きたの?おはよ」

焦って出した声は寝起きなのもあって擦れていた。
顔を上げた楓はふふっと可愛く笑って、俺の胸元にこてんと再び頭をのせた。

遮光カーテンの隙間から、冬の淡い朝の光が寝室の床に細長く差し込み、浮遊する微かな埃を白く照らしている。

抱きしめたりキスをするのはもう当たり前になってきたし、それに楓も抵抗がないのは分かる。
俺ももうそこは遠慮していないし、踏み込んでいいと分かっている。


けれど、これは、違うだろ。
俺のベッドに潜り込むのは、だめだろ。


「楓、起きたから」
「んー私早く起きちゃったから、まだ家出る時間に余裕あるんだー」

そうじゃない、早起きは結構だけども今はそれは大事じゃない。

「今日は在宅?昨日のローストチキンが残ってるから、お昼用にサンドイッチ作っておいたよ。なんと手作りバジルソースでーす」
「…美味そう」
「ちょっとチンして、トースターで焼いてね」
「…わかった」

分かってる、楓にそんな気がないことは。

俺の前なら、どんな自分を晒しても絶対に嫌われない、受け止めてもらえる。
十年かけて培われた、そんな無意識の甘えと信頼が、恋人の距離感と合流して混線しているんだ。

男として見ていないわけではない、けれど「普通の男」相手ならしないことを、「兄である俺」相手だからこそ、してしまう。

「ふふ、布団あったかーい」
「……そろそろ俺も起きるわ」

ただ単に何も考えてないわけでも、鈍いわけでもない。

俺に対して、きっと一番大きな気持ちは「好き」ではなくて「安心」だ。
だから、俺はこれに変な感情を抱いてはいけない。
そういう合図ではないのだから。

「えー」
「楓」

いつも、楓に何かを言うときには、兄としての立場が顔を出す。
だって、男としては何も文句なんかないんだから。


楓がくっついてきて、何が問題なんだ。
俺がそれに欲情して、何が問題なんだ。

付き合っているのに、その先を望むことの、何が問題なんだ。


「なに?」


楓がそう言いながら、俺に笑いかけた。
シーツが擦れ合う細かな音が耳に遅れて届く。

少し幼さの残る丸顔に、目尻がわずかに下がった人懐っこい瞳。
肩につくかつかないかの長さの、すとんとした髪の毛が布団の中でくしゃりと少しだけ乱れている。


ああ、でもその無垢な瞳は、完全に俺を信頼しているんだから。
奥歯を小さく噛み締めた。

俺はそれを、壊すのが怖い。



「…彼氏の布団に潜り込むっていうのは、どういう意味か分かってる?」
「……っ!」

楓が慌てたように俺から離れて、布団から起き上がった。
ほら、まだそんな覚悟はない。

それに絶望するような、でも俺は心のどこかで安心している。

「あの、ごめ、」
「別に謝んなくていいけど」

ちょっとしたため息ひとつでビクビクしたり、キスをすれば足元から崩れ落ちるようにへたり込んでしまったり。
無防備に突っ込んでくるくせに、男の顔が見えると、少しだけ怯える。

「俺で良かったね」
「…どういうこと?」

楓が小さく首を傾げる。
キスをすると、必死に応えようと頑張っている姿がかわいい。
頬を赤く染めながら、俺の背中や服にしがみつく仕草に、たまらなくなる。

「信頼してくれて何よりだけど」
「う、うん」


それでも、俺は、楓の意思がないところには踏み込まない。


「…朝でよかったね」
「っ」

楓が頬に手を当てた。
自分でもきっと赤いことに気づいていて、それを俺に見せたくないんだろう。

「仕事休んで今から二人でゴロゴロしよっか?」

楓に向かって、手を広げた。
いじわるを言って楓をからかうのも好きだけど、今は離れた方が良くない?

「しっ、しない!ご飯あっためてきてあげるから起きてて!」

勢いよくシーツが引き剥がされ、バサリと空気が動く音がした。
楓が部屋から去っていったあとの隣のスペースに、冬の冷たい空気が流れ込んでくる。

「はーい」

楓には、俺が余裕だと、ずっと思っていて欲しい。


怜はそう言って、布団をめくった。
引きずり込まれそうになっていた熱を、無理やり冷ます。
残り香にいつまでも浸っていると良くない気がして、でもキッチンで恥ずかしがっている楓を早く抱きしめに行きたい。

廊下の向こうから聞こえる、食器がカチャカチャと触れ合う小さな生活音を耳で追いながら、怜は乱れた前髪を無造作に掻き上げ、ベッドの縁に足を下ろした。


朝食の前に、楓を揶揄いながら抱きしめて、キスをするくらいはきっと許される。