「楓ちゃん、ちょっといい?」
「はい!」
デスクでパソコンをじっと見ていた健太郎が、楓を手招きした。
今日はレッスンは休みの日で、講師は各々の試作や練習、事務仕事などを片付けている。
「来月、クリスマスもあって予約が殺到してブッシュ・ド・ノエルの増枠が決まったんだよね。楓ちゃん、メインで何コマか入れる?」
「え!?」
健太郎がパソコンの画面を変えて、楓に見せた。
確かそれは桃香が入る予定のもので、クリスマス前とあってすぐに埋まる大人気のレッスンだったはずだ。
「すでに埋まってるのは桃香ちゃんなんだけど、桃香ちゃんに本部研修にも行ってもらわないとで、こっちの増枠分は楓ちゃんに任せたいなと思って」
「う、嬉しいです…!」
健太郎が優しく微笑みながら、また画面を切り替えた。
「ついでに、ローストチキンのハーブバター焼き、マッシュポテト添えのレッスンも予約枠を拡大したから、そっちのメインもやっちゃおう」
「ええ!?」
「楓ちゃんならできると思うんだよねー」
レッスンでは生徒と講師が一斉に作り、自分の作ったものはそのまま持ち帰ることができる。
講師が作ったものを全員で試食してレッスン終了なので、特にクリスマス前のレッスンは通常よりも予約がすぐに埋まり、人気だ。
「スポンジ、クリーム、巻く、表面を塗る、飾る、箱詰め。テンポと段取りしっかりね。焼き時間と冷ます時間、巻くタイミングとデコレーションで押さないように」
「はいっ」
「ローストチキンも下味、オーブン、ソース、付け合わせ、皿への盛り付け見本まで。じっくり焼くからオーブンの時間、焼き上がりの見極め、作業スピードをちゃんと見ること」
「はいっ」
健太郎は「じゃあ決まりねー」と言いながらパソコンに何やら入力した。
クリームの絞りは経験が必要で、製菓学校を出ているプロ並みの桃香が担当することが多かった。
楓も練習してかなり出来るようにはなったが、レッスンとなると時間を自由にかけていいものではない。
「両方とも毎年の人気レシピで、やっぱりクリスマスは受講者さんの期待値が高いんだけど。楓ちゃん、最近全体見れるようになってきたから任せたいなと思って」
「ありがとうございます…!」
入社して八か月、少しずつ難しいレッスンも任せてもらえるようになって嬉しい。
工程が難しいパンやスイーツ、数が少ない料理レッスンなども今後もっとできるようになりたい。
「うん、普段は担当しないお客さんとも触れ合えるチャンスだからね、頑張って」
「はい!」
健太郎は楓の返事ににこりとして、「この後練習していいからね」と言ってパソコンの画面に向き直った。
楓が機嫌よくデスクに向かうと、話を聞いていたらしい品川に「頑張ってね」とウインクをされた。
手のひらにじんわりと汗が滲むのを感じていた。
今度お休みの日に、しっかりレシピを予習しなきゃ。
今日は桃香さんにも聞いて、ちょっと練習頑張らなきゃ。
——「それで、月曜の夜からごちそうなの?」
今日のスタジオでは材料の関係でブッシュドノエルしか練習できなかったので、帰りにスーパーで買い物をしてローストチキンを仕込んでいた。
「えへ、そうなの」
「すっごい美味そうな匂い」
「うん、四種類のハーブ使ってるから」
無塩バター、にんにく、ローズマリー、タイム、イタリアンパセリ、レモングラスを使ったハーブバターを皮と身の間にも入れてある。皮が揚げたようにパリッとして、中にも油が染み込んでジューシーなレシピだ。
オーブンのガラス窓の向こうで、じわじわと黄金色に焼き上がっていく鶏肉の表面から、細かな油の粒がパチパチと爆ぜる音が狭いキッチンに低く響いている。
「良かったね、任されて」
「うん!前に桃香さんにクリーム絞りの練習も付き合ってもらった甲斐があった!」
「ああ、やってたね」
怜がふっと思い出したかのように笑って、楓を後ろからふんわりと抱きしめた。
そんな流れだと思っていなかったので、思わずオーブンを見つめたまま固まる。
「…私もぎゅってしたい」
そう言って楓が動こうとすると、ふっと怜の腕が緩んだ。
くるりと向き直ると、再度背中に手を回された。
楓も怜の背中に手を回し、真っ直ぐに自分を見つめる怜と目があった。
「怜ちゃん…前髪、伸びた?」
「え?」
真ん中で分けている怜の前髪が、目に入りそうで急に気になった。
昔の怜ちゃんは前髪を下ろしていて、それはそれで好きだったんだけどな。
そう思いながら、指先で前髪を移動させようとするも、楓を見下ろすように下を向いている怜の顔の角度のせいで、うまく動かせない。
「これ邪魔だなってなら、んんっ」
話している途中で、ふっと怜の顔が降りてきて、落とすようなキスをされた。
数秒触れてから離れていった怜の顔は、悪戯っぽく口角が上がっていた。
「…なんで」
「…かわいい顔が、目の前でなんか必死に動いてたから」
怜がそう言って、顔を少し振って前髪を分けた。
最初っからそうしてくれれば良かったじゃん。そう思った楓の思考を読み取ったかのように、怜はふっと笑った。
「…いじわる」
「いじわるかなぁ」
怜がそう言って、ゆっくりと顔を近づけた。
それに合わせるように自然に顎が上がって、焦点がギリギリ合わないような距離で、顔が止まった。
また唇が降りてくると思ったのに、じっとその場で止まって動かない。
ほら、やっぱり、いじわるじゃん。
「……」
「………してよ」
先に、音を上げたのは楓だった。
消えそうな声でそう言うと、それを待っていたかのように怜の唇が、かぶりつくように触れた。
「ん、っ、ふぁ、」
どうして、自分はこんなに息が漏れていくのに怜は平気そうなんだろう。
顎がどんどん上がっていって、身体の力が抜けていく。いつの間にか腰に回った怜の手がぐっと自分を支えてくれていた。
ふらりと背中をついたのは冷蔵庫で、頭がこつんと扉に当たった。
背中に触れた冷蔵庫のガラストップのひんやりとした硬さが、スウェット越しに肌へと伝わる。
微かに響く水音を、オーブンの低い稼働音がかき消していく。
——昨日、駅まではしばらく無言だった。
でもずっと手は繋がれていて、怜のコートのポケットに入れられていた。
ちらりと見つめると怜も見返してくれて、それがすごく幸せな気持ちになった。
家に帰った後は、さっきのことがまるでなかったかのようにお互いが振る舞って、寝る前に「おやすみ」と触れるだけのキスをした——
「ん、は、」
次第に深くなって、口内を侵食されて、それに必死に合わせていく。
衣服が擦れ合うかすかな音が、鼓膜に鮮明に響く。
あ、これ以上は、なんかやばいかも。
限界になった楓の腰が、ふにゃりと歪んで力が抜けた。
そのまま、ぺしゃりと床に座り込んだ。
フローリングの床の少しざらついた感触が、素肌の出た膝の裏に冷たく触れる。
そんな楓の姿を見下ろした怜が、ふうと息を吐いてしゃがんだ。
「…は、」
息ができなくて、助かったかもしれない。
きっと今の自分の顔は赤いし、絶対に変な顔をしている。
「……」
しゃがみ込んだままの怜は、じっと楓を見つめていた。
怜ちゃんも、なんか——
いつものような揶揄う視線も、きゅっと上がる口角もなくて、ただ真っ直ぐに楓を見つめる怜の目つきが、色っぽかった。
そんな印象を怜に抱いたのは初めてで、胸がぎゅっと締まった。
少し視線を逸らした怜が、ふっと笑った後に再び楓を見た。
「…かわいい」
怜の手が頭に乗って、優しくわしゃわしゃとかき混ぜるように頭を撫でた。
その一瞬の顔が、なぜだか寂しそうに見えたのは、気のせいかもしれなかった。
「怜ちゃんは、余裕で、くやしい…」
楓がそう言うと、怜はまた少しだけ笑って立ち上がった。
オーブンに視線を一瞬向けた後、「ご飯、できたら教えて」と言ってリビングを出ていった。
先ほどよりも強いバターの香りがいつの間にか充満していて、しばらくしてからオーブンがピーピーと鳴った。
立ち上がろうとしても膝に力が入らず、楓はただ、自分の呼吸の音と、オーブンから放たれる熱波の低い音をしばらく聞いていた。



