キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
店を出ると暖房の余韻が消え、冷たい夜風が頬を撫でる。
ガラス張りの店内から漏れるオレンジ色の灯りが、歩道を柔らかく照らしていた。

「美味しかったねー!」
「そうだね」

さっき窓から見えた運河が気になって、「ちょっと散歩して帰ろうよ」と怜に言うと、「いいよ」と笑ってくれた。

遠くでゆりかもめが高架を走り抜けていく。
オフィスビルの窓明かりが規則正しく並び、都会らしい静かな夜景が広がっている。

「私まで連れてってくれてありがとう」
「どういたしまして」

いつもはどうしてたの?
そう聞こうとして、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「怜ちゃんって、仕事できるんだなって改めて思ったよ」
「俺は別に、あれを実際に手がけたわけじゃないし」

楓から絡めた手のひらは、怜のコートのポケットの中に仕舞われている。
指先をきゅっと握ると、微かに怜も握り返してくれた。

「かっこよかった」
「ふ、ありがと」

怜がそう言って笑った。
歩いていると遊歩道に降りて行ける道を見つけて、楓が怜の手を引っ張った。


なんでだろ、今日はまだ帰りたくない。


帰ったら、きっと、いつものように——
あの家は、私と怜ちゃんを兄妹に戻してしまう気がするから。




「怜ちゃんってさ」
「ん?」

階段を降りた先にあった遊歩道には、細長い間接照明が一定間隔で埋め込まれ、足元だけを優しく照らしている。

「モテた?私と出会ったときは、彼女いた?」
「なんだよ急に」
「いいじゃん、怜ちゃんだけ私の過去の話全部知ってるんだから不公平だよ」

怜が「えー…なにそれ」と言いながら考え出した。
知ってるんだ、私が押し切ったら、怜ちゃんは大体のことは叶えてくれるって。

「全然モテてはないけど、高三の時は…彼女いたね」
「誰?同級生?」
「俺は水泳部だったでしょ、そのマネージャーだよ」
「ふーん…」

運河の水面には高層マンションやオフィスの灯りが何本もの光の帯になって揺れている。

「じゃあ、大学生の時は?」
「もういいじゃん、楓、明日も仕事でしょ。帰ろ」
「良くない、知りたいんだもん」

繋いだ手のひらに、ぎゅっと指を絡めた。
怜のコートのポケットの中は、いつの間にか二人の手の熱で温かい。
裏地のつるんとした生地が、楓の手の甲を撫でていく。

「いたり、いなかったりだよ…別にそんな…ていうかあの頃は、土日のたびに市川に行って楓と会ってたじゃん」
「それで?」
「……親父が再婚して、楓と一緒に住んでた頃はいなかったよ、ずっと」

でも絶対、彼女がいなくても怜ちゃんは遊んでたと思うんだ。
写真を見返したことがあるけれど、大学の途中から一気に垢抜けた感じがするんだもん。
絶対、女の子の影響だと思ったんだよね。

「ふーん…また離婚した、あとは?社会人三年目くらい」
「……いたこともあるけど、そんな長く続いてはない」

それは、複数いたってことで。

ぐいぐいと歩く楓の後ろを、怜がついてくる。
手を繋いでいるので、一定の距離から空くことはない。


「もう良くない?あんまり彼女に過去の恋愛の話とかしないでしょ」
「…うん」


わがままを言うくせに、怜ちゃんの顔色が気になる。
嫌われたらイヤだなって、思う。

妹みたいに、わざと強引に振り回すようにするくせに、妹扱いされるのは嫌だなんて、都合が良すぎることくらい、分かってるのに。


「……どうした?なんかあった?」

そんなふうに、私が振り回したって、甘やかすように聞いてくれるのが、なんだかすごく嬉しくて、悲しくて、どうしたら良いのか分からない。

「…嫉妬してる」
「えっ」
「…なんでそんな驚くの」

だからもう、素直に言うことにした。
怜の履いている革靴が、動揺したかのようにアスファルトにザッと擦れた。
振り返ると、戸惑ったような怜の顔があった。

「いや…ちょっと、予想してなくて」
「…ごめん、感じ悪くて」
「感じ悪かった?話したくないのは俺の都合っていうか、俺の問題なんだけど」

橋の下を通るたび、街の音が少しだけ反響する。
時折ジョギングをする人とすれ違い、まるで二人きりの時間が流れているように感じる。

「…怜ちゃんに彼女がいたこととか、どの口が言ってるのって思うかもだけど、なんか嫌だ」
「…」
「だって、怜ちゃんは、私のお兄ちゃんだったじゃん。昔から、知り合った時からずっと、お兄ちゃんだったのに」


ねえ、いつから私のこと、好きだったの。
その時も、彼女、いたの?


「怜ちゃんは器用だし、仕事もできるし、かっこいいし、なんでもできるし、優しいし、甘やかし上手だし」
「……」
「変なこと言ってるのも、どうしようもないのも分かってるんだけどさ、でも、なんか、悔しい。だって、私が怜ちゃんのこと、一番知ってると、仲良いと思ってたのに」




くん、と腕を引かれた。


「っ」



運河に面した手すりが、夜露で少しだけ冷たく光っているのが、視界の端に映った。

手は繋がれたまま、怜の身体に包み込まれるように抱きしめられていた。
コートの裾が、ふくらはぎに当たって、一瞬遅れて頭に手が添えられた。

「…れい、ちゃん」
「……」

怜は何も話さなかった。
頭に添えられた手が、するりと髪の毛を撫でていく。

「ごめん、わがままっていうか、変なこと言って」
「…ううん」
「反応、困るよね、ほんとに、どの口がって話だし…」
「かわいい」

耳元でぼそりと囁くように落とされた声が、熱かった。

「えっ」


怜がふっと身体を離した。
繋いでいた手がするりと解けて、今度は背中に回った。

離れて初めて、自分の手が汗ばんでいたことに気づいた。
はぁっと漏れる息が、白い。



「楓」


怜が少しだけ屈んで、楓に視線を合わせた。

目の前に、怜の顔が広がる。


いつもより少しだけ、熱っぽい気がした。



「…もう拒否しないの?」
「…しない」


そのまま、しばらくじっと見つめ合った。
先に視線を逸らしたのは、怜の方だった。


「…いいの?」
「……心の準備、できたから」


ちがう、嘘だよ。


私が、くっつきたくてたまらないの。
怜ちゃんをもっと知りたくて、近づきたくて、もう、抱きしめられるだけじゃ、足りないの。




「…かえでが、いちばん、かわいいよ」
「っ」


声の甘さに、思わず視線を逸らした。

その一瞬の隙を狙ったかのように、怜の顔が近づいた。



目を閉じる前に見えたのは、伏せた怜の瞳の上に薄く刻まれた、二重の、線。




ふに、と唇が柔らかく触れた。



前みたいな激しいキスじゃなかった。

しばらく触れていたあと、ゆっくりと離れた怜の顔を見つめていたら、自然と言葉が漏れた。


「…もっと」
「…酔ってんの?」


怜が、小さく聞いた。


「酔ってない」
「…知らないよ」



でも、勢いつけたくてお酒を頼んだのは、あるかも。



楓は怜のコートの袖を引っ張って、少しだけ背伸びをして顔を近づけた。

楓が触れるよりも早かった。
怜の唇が、挟み込むように触れた。



「ん、っ、ふ、」




啄むようにして、次第に音が漏れていく。
いつの間にか怜に体重をかけられるような形で身体が反っていた。

背伸びしていた踵は呆気なくアスファルトに着いた。
背中に回っていた怜の手が、するりと後頭部に移動した。



「っん、れい、ちゃ」


頬を風が撫でていって、そういえば外だったなと思い出した。
でも今はどうでもいい気がした。
必死に応えるように、怜のコートを握りしめた。



「っ」


舌がぬるりと入ってきたのは突然だった。


びくりと揺れた身体を見越していたかのように、怜がぐっと引き寄せた。
拒否する気はなかったが、その熱に押されて楓は少しだけ目を開けた。

閉じているものだと思っていた怜の瞳が、うっすら開いていた。
それに気づいたら急に恥ずかしくなって、慌てて目を閉じた。


「ん、は、ぁっ」


頭上を通る橋の影が、二人の上に濃い闇を落としている。

口内を絡め取られるみたいに怜の舌が動いていく。

自分の熱い息が溢れて、唇と唇の間にできた少しの空間すらも許されないみたいだった。



息が上手く吸えなくて、ついに楓が、ぶはっと息を大きく漏らした。

怜がはっとしたように顔を離して、言った。


「…ごめん…がっついた…」
「う、ううん…」


怖い、自分が自分じゃないみたいで。



こんな外で、止めてほしくないと思ったなんて、知られたくない。


「…帰ろっか」
「……うん…」


怜が唇の端を親指で拭うところを、ぼんやりと見ていた。
店を出る前に塗ったリップの色が、移っている。


そこにある熱と色は私のものなんだと思うと、少しだけまた、胸がどくんと疼いた。