————「楓、今度美味しいご飯食べに行こっか」
一ヶ月ほど前、怜が楓に言った。
夕食の食器を片付けながら、楓が「どうしたの?」と聞いた。
「副業でデザイナーズ事務所の経営顧問してるって前言ったじゃん?そこが内装デザインを担当したレストランが、オープニングレセプション開くんだって」
「ふーん…??」
「オープン前に関係者を招待しますってやつ。それに来ないかって言われてさ、どうかなって」
なんだかすごいことだけは分かるが、怜が担当しているお客さんからサンプルだお礼だと品物をもらい、持って帰ってくることはよくあるので、それの一部なんだろうか。
「え、私が行っていいの?」
「うん、二名まで良いですよって言われてるから」
そういえば、前も招待されたイベントだ展示会だと言ってた気がする。
そんなこともあるんだな、怜ちゃんってやっぱなんかすごいんだな。そう思っていると、怜がふっと笑った。
「コースだから、美味しいデザートも出るよ」
「…食いしん坊みたいに言わないでよ」————
「本日はありがとうございます」
「蓮見様ですね、お待ちしておりました。近藤からお伺いしております」
芝浦にあるレストランで、受付に名前を伝える怜の背中を見て、楓はあの時の会話を思い出した。
周囲を見渡すと天井は高く、黒く塗られた配管があえて剥き出しになっている。
大きなガラス窓の向こうには夜の運河がゆっくりと流れ、街の灯りが水面に細長く揺れている。
「あ、蓮見さん!お疲れ様です、本日はありがとうございます!」
「近藤さん。こんばんは」
奥から濃いブラウンのスーツを身に纏った男性が、怜に駆け寄って声をかけた。
仕事モードの声色の怜に、楓は邪魔にならないようにと少し距離を置いた。
その楓の動きに反応した男性が、怜に問いかける。
「こちらは…」
「ああ、彼女の楓です」
「こ、こんばんは」
彼女という言葉の響きには、いまだに慣れない。
そういえば誘ってくれた時は、まだ付き合っていなかったけれど、妹って紹介してくれるつもりだったのだろうか。
妹でも、彼女でも、仕事の人に私を紹介してくれるんだ。
「初めまして。本当にいつも蓮見さんにはお世話になっています」
「えっと、あの、いえ、こちらこそ…ありがとうございます…?」
こういう時の適切な返し方がよく分からなくて、自分の知識の無さが恥ずかしい。そういえば怜ちゃんは、健太郎さんに会った時もそつなく挨拶してくれていたな。
「入口を、前回アドバイスいただいて、ガラス面を広げたんです。植栽を減らして、あと照明もかなり落としました」
「外からの視認性が上がって、新規客の心理的ハードルが下がりますからね。昼夜で照明のコントラストをつければ、客層の入れ替えや客単価のコントロールもしやすいですし、SNSでの自発的な拡散も狙えます。初期の認知獲得には最適かと」
「いやぁ、本当にありがとうございました。デザインにロジックが通って、クライアントへのプレゼンも一発で通ったんです」
「いえいえ、素敵なお店に仕上がって僕も嬉しいです」
会話は聞いていいものなのか、うんうんと頷くのも変だし、ていうか何言ってるのかよく分からないし、でもさっき紹介してもらったのに離れるのもおかしいし。
「蓮見さん、オーナーの星野も、本日蓮見さんがいらっしゃるのを大変楽しみにしておりまして。今、あちらでご挨拶を……あ、星野さん」
近藤が、こちらに気づいてまっすぐ歩いてきた上品な初老の男性に向かって、一歩引いて道を開けた。
「星野さん、ご紹介します。経営顧問の蓮見さんです」
「こんばんは、蓮見です。本日はおめでとうございます」
「いやぁ、蓮見さん!いつもありがとうございます。今回、蓮見さんのアドバイスのおかげで初期の運転資金にかなり余裕ができましてね、内装に思い切りこだわることができたんです。本日はぜひ、ごゆっくり楽しんでいってください。……お隣の素敵なお嬢様も、どうぞご遠慮なく」
そう言って初老の男性がにこりと笑って去っていった。
頭を下げる怜に合わせてなんとなく楓も同じようにする。
なんだか、怜ちゃんってもしかしてすごいのでは?
楓がそう思いながら怜の顔を見上げると、男性に手招きされたウェイターが「お席にご案内します」と怜と楓を促した。
案内された窓側の席は、窓から運河が見えた。
天井から吊るされた真鍮のペンダントライトが、テーブルだけを柔らかく照らしている。
グレージュの壁に光が当たるたび、細かな陰影が浮かぶ。
「楓、なに飲む?」
「飲み物まで頼んでいいの?」
「どういうこと?飲んでいいよ」
だって、こんなご招待とか初めてなんだもん。
そんな自分ばっかり慣れてるからって、分かってますって顔しないでよ。
「…こういうの、よくあるの?」
「たまに?展示会とか試食会とか、ブランドイベントとか…よく俺が頂き物って言って持って帰ってくるお菓子みたいなもんだよ、それの規模が大きいだけ」
メニュー表は厚手のコットンペーパーに活版印刷されていて、紙をめくるたびにかすかな凹凸が指先に伝わる。
楓がドリンクを決めて伝えると、怜が一緒に頼んでくれた。
店員が去っていくと、楓は怜の顔を改めて見た。
なんだか、今日は落ち着かない。
「…仕事モードの怜ちゃんだった」
「ああさっき?まぁ、仕事の人だからね」
怜が何気なく外の景色を見ながらそう言った。
すぐにドリンクが運ばれてきた。
楓の前に静かに置かれた淡いピンク色のカクテルが、細いシャンパングラスの中で小さな泡を立てていた。エディブルフラワーが一輪浮かんでいて、グラスの縁には薄くスライスされたレモンが添えられていた。
「可愛い…!」
「お酒なんか飲んで良いの?明日仕事でしょ」
「いいの、だってこんなの飲んだことないんだもん、美味しそうだし」
「一杯だけにしなよ」
「はーい」
怜の前には、透明感のあるノンアルコールの白ぶどうスパークリングが注がれていた。繊細な泡が静かに立ち上った。
だって、なんか、今日の怜ちゃんは仕事ができる人って感じで、かっこよくて困るよ。
私がここにいるのが場違いのように思えるんだもん。
たまにこういうのあるって言ってたけど、今までは誰と来てたの?
一人?三浦さんとも来るのかな。
他のお友達がいるのかな。それとも——
「失礼いたします。本日のメインがお肉かお魚をお選びいただけるようになっておりまして——」
ウェイターの声に遮られた思考が、ぼんやりと説明と共に耳から通り抜けていく。
頷きながら話を聞いていた怜が、「一つずつ頼む?」と聞いた。
「う、うん」と楓が咄嗟に返すと、怜が「肉と魚一つずつお願いします」と言った。
その後もアミューズ、前菜、温かい一皿と、楓と怜の食べるペースに合わせてゆっくりと皿が運ばれてくる。
オープンキッチンから肉を焼く香ばしい香りと、バターが溶ける甘い香りが微かに漂ってくる。
ワイングラスに映り込む運河の灯りが、揺れるたびにきらりと反射する。
「美味しい…!」
「ね」
怜がさらりと返す姿を見て、楓はなんだか面白くない。
やっぱり、慣れてる感じがする。
なんで私を連れてきてくれたの?なんで彼女って仕事の人に紹介してくれたの?
前も、そうしてたの?
BGMは小さく流れるピアノジャズで、食器の触れ合う音が静かに溶け込んでいる。
「失礼いたします。パスタのお料理、生タリアテッレ牛ほほ肉のラグーでございます」
目の前に置かれた皿は、平打ちのパスタが中央に綺麗に巻かれていた。
艶やかなソースがたっぷりと絡み、大きめにほぐされた牛ほほ肉が贅沢に入っていた。
フォークで軽く触れただけで牛ほほ肉はほろりと崩れていく。
目の前の怜は、パスタをくるくるとフォークに巻きつけていたが、楓の視線に気づくと「ん?」と言った。
彼氏の話なんか、自分はたくさん怜ちゃんにしてきたのに。
勝手なことを言っているのは分かっている。
過去のことについて何か言ったところで、そんなのはどうしようもない。
分かって、いるのに。
だって、怜ちゃんってかっこいいよ。
黒髪が、真ん中でくしゃりと分けられている。
いつもは少し気だるげなくせに、笑うとその顔が一気に優しくなる。
アルファベットのWのような形をした唇が、きゅっと口角を引き上げていて、背も高くて、センスもよくて、仕事もできて、こんなところに招待されちゃってさ。
ねえ、元カノとか、連れてきてたの?
なんかすっごく、いやなんだけど。
ああ、私、怜ちゃんを、独り占めしたいのかも。
窓際の席からは、運河越しに高層のビルが見えた。
船が通るたびに水面の光が、ゆっくりと崩れていった。



