キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 

「…楓?」

風呂を上がって、髪の毛を乾かそうとして、ドライヤーをリビングに置きっぱなしだったと気づいて向かった。
リビングに入ると冷たい風が一気に廊下に流れていって、奥にあるテレビはつけっぱなしなのに、楓の姿がない。

もしかして、とソファを覗くと、パーカーを上半身にかけ、すうすうと眠っている楓がいた。
パーカーのフードを握りしめているその姿を、しばらくじっと見つめていた。
部屋が、静かだった。

フードを握り込んでいる楓の指先は、節がなくて白く、爪の表面が小さく光っている。
楓が息を吐き出すたびに、パーカーの胸元がかすかな衣擦れの音を立てて上下していた。

一番隠してほしいと思っていた素足はそのままソファに投げ出されていて、ショートパンツは薄い生地なのか少しだけめくれている。
チョコレートブラウンに染めた、肩につくかつかないかの長さのすとんとした短い髪が、さらりと重力に従って垂れていた。

「意味ねーな…」

その奥にあるものの想像すらしたくなくて、急いで目を逸らす。

だから、一緒になんて住みたくなかった。
離れていれば、見ないで済んだから。

ソファにかけてある綿素材のブランケットは、楓が実家から持って来たものだろう。
こんなちゃんとしたものがあって、なんで俺の服を被って寝るんだ。

「はぁ」

ブランケットを広げ、楓の足元にそっと乗せた。
起毛した綿の生地が、楓の膝下の柔らかな皮膚を撫でるように覆い、投げ出されていた素足の指先が、布の重みでわずかに沈み込む。

それをしばらく見ていた。

クーラーの温度を二度上げて、パーカーはそのままに、部屋の電気を薄暗くした。
ドライヤーを音を立てないようにコンセントから抜いて、怜は洗面所に戻った。

本日二回目のドライヤーを自分の髪に当てながら、湯気で少し曇りかけた鏡を、手のひらで横に拭った。

濡れたままの黒髪から滴った水滴が、顎のラインを伝って鎖骨へと落ちていった。 鏡の中の自分は、何を考えているのか分からない、いつもの無機質な表情のままだった。

こういう顔をするようになったのは、いつからだろう。




小学一年生の頃、母が浮気をして家を出ていった。
俺を連れて行こうとしたらしいが、父が仕事を変えてまで親権を取ったと聞いたのは、中学生の頃だった。

そんな父親が付き合っている人を紹介したいと言ったときは、俺のせいでダメにならないように気をつけなければと思った。

楓に初めて会ったのは、高校三年生の春。
小学六年生なんていう多感な時期の女の子と高三の男を会わせたところでうまくいくわけない、と思っていたが、持ち前の明るさか、素直に育っていたらしい楓は、すんなり俺を「お兄ちゃんになる人」だと受け止めてくれた。

一番の懸念点だった楓の反応が良かったからか、それから月一か月二で会う機会があった。
最初はファミレスでご飯だけだったが、だんだん時間も伸びて、回数を重ねると俺が気を使って楓を連れ出すことも多くなった。

幸いにも俺は勉強だけはできたので、楓が持ってきた宿題を教えていれば時間が潰れた。

『前、怜ちゃんが宿題教えてくれたから』と手作りクッキーを持って来てくれて、それがとても美味くて、素直に伝えたら、すごく嬉しそうにしていた。

次に会う時も、その次も、楓は必ず何かを作って持ってきた。あの時の一言が、そんなに嬉しかったのかと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。




「…まだ寝てるか」

髪の毛を乾かし終わり、再度リビングに様子を見に行くと、楓はまだ寝ていた。
向きが変わって、俺のパーカーを抱きしめるようにして横を向いていた。
先ほどよりも冷えていない部屋に安心して、リビングのドアを閉めた。

『おつおつー、悪いな夜に』
「いいよ、今回はどこの案件?」

部屋に戻ってパソコンを開き、送られてきたURLにアクセスすると画面に三浦が映った。副業としてもコンサルを受けている俺に、三浦は定期的に前の会社繋がりで案件をよこしてくる。

今回はそれの打ち合わせだった。きっと先日も、本当はその話をする予定だったんだろう。
怜がイヤホンを耳に押し込むと、外の静寂が遮断され、三浦の部屋の乱雑な背景と、少し割れた声が鼓膜に響いた。

『楓ちゃんは?今日はなんのメシだった?』
「…リビングで寝てる。今日はピカタっていう鶏のなんか美味いやつ」
『いいなぁ、楓ちゃんがパン焼いてる時また教えてよ』
「やだよ、パン屋なんかその辺にいくらでもあるだろ」

三浦は『えー、また食いたいあのスープもパンも』と喚いている。
普段の品数からしたら、あれは少ない方だと言ったらまた何か言われそうなので、言わない。

『こないだ悪かったなー!キャバクラとか合コンネタもダメだったとは』
「普通に聞かれたくないだろ」
『そうか?俺は妹に聞かれても何も思わねーし、てかどうでもいい」

画面越しに三浦がケラケラと笑いながら言って、怜は片手で顔を覆った。
普通は、そうなんだろう。きっと、楓も俺も、普通じゃない。

『何考えてるか分かんねーと思ってたけど、お前のことがようやく分かったよ、俺は』
「なにがだよ」
『よっぽどなんだな、お前そんなんでやってけんの?』
「…なんの話」

何にも考えてなさそうに見えて、察しが良くて仕事ができる。
三浦のそういうところを、今ほど恨んだことはない。

『そういやなんで楓ちゃん、お前のことを怜ちゃんって呼ぶの?』
「…初めて会った時、母親から、“怜”って名前のお兄ちゃんと会うよって教えられたらしいんだけど、名前的に女の子だと思い込んでたらしくて」

——お姉ちゃんだと思ってたのにお兄ちゃんだった。
怜ちゃんってお姉ちゃんができると思ったのに。と眉を下げてショックそうな顔をする楓に、大人二人は慌てた。
なんせ楓の機嫌を一番に考えていたらしいから、そんなところで躓くとは思いもしなかっただろう。

「別に、怜ちゃんって呼んでもいいよ。お姉ちゃんにはなれないけど」

父親からどうしようという目線を向けられて、何で俺が悪い雰囲気なんだ、と思いつつも苦し紛れにそう言った言葉に、楓は一瞬キョトンとして、吹き出した。

面白いことを言ったつもりではなかったが、楓のお母さんも笑い出して、隣の父親も変な顔をして俺を見ていた。そんなことを言うタイプじゃないと思われていたんだろう。実際、俺も何でそんなことを言ったのか分からない。

これ幸いと言わんばかりの父親までもが、俺を怜ちゃんと呼び出して、楓と楓の母には大ウケで、何とかプラスの雰囲気で初回の顔合わせが終わった。

意外と小学六年生というのは、俺が思うよりもませていて、次回から早速そのネタで揶揄ってきた、生意気な女子は、いつの間にか本当に俺を怜ちゃんと呼び出して、定着した——


『え、お前にもそんな可愛い時期があったの…』
「…うるさいな、はい。この話終わり。で、今回の案件は?」
『ふーん?まぁ、見守らせてもらうわ、“怜ちゃん”の恋』
「やめろ。恋とか…そういうのじゃない」


そばにいると、少しの息苦しさを感じるようになったのは、いつからだろう。
その息苦しさの正体が、長らく分からなかった。

俺はそれを、今でも知らないふりをしている。