最近の楓は、距離が近くて困る。
「じゃあ私、お風呂入ってくるねー」
「はーい」
ソファでだらりと一緒にテレビを観ていた楓が、番組が終わったタイミングでよいしょと立ち上がって、リビングを出ていった。
俺も何気なく返事をしてはいるが、さっきまでの楓の体勢はまぁそれはもう、俺の我慢選手権でも開催しようとしてんのか、と言わんばかりだった。
ソファに座ると、もれなくぴったりとくっついてくる。
俺の肩に頭を預ける。
視線が合うと、嬉しそうに笑う。
手が触れると、恥ずかしそうにしながらも指や腕を遠慮なく絡めてくる。
「はぁ」
怜はテレビを消して、ソファから立ち上がった。
あんなに兄にこだわっていたはずなのに、彼氏彼女という関係になってみれば、いつの間にか完全に、女の顔を見せている。
それに、俺がどんな思いをしているかなんて、まったく分かっていないだろう。
でも知らなくていい、楓がそういう気持ちになるまで、俺はもう、いくらだって待てる。
そう思っているのに、それでも男としての本能は存在しているわけで。
いくら兄だと理性的になろうとしても、知らない間に顔を出す。
この煩悩を消し去るには仕事をしていればいい。
そう思って自分の部屋に一度入ってデスクに座るも、頭の中がモヤモヤして文字が上滑りする。
「…やめよ」
そうだ、もう、適当にスマホで動画でも観て、生産性のないことをしよう。
ふぅと息を吐いて、怜はリビングに戻った。
廊下を通ると、洗面所からシャワーの音が聞こえて、それも俺の思考の邪魔をする。
再びソファに横になると、先ほどまで自分と楓が座っていた部分がまだほんのり温かかった。
怜はスマホを開いて、その前に習慣になっているニュースサイトを開く。
両思いだと分かった時に、耐えきれずに耳たぶにかぶりつくように唇を寄せた。
多分、そこそこ濃いキスをした。
それが良くなかったのかもしれない。
俺との関係が変わって、楓が緊張気味なのは分かっていた。
長い間拗らせていた俺とは違って、楓の中で心の準備や整理がいるのかもしれないとも思ったし、俺を好きでいてくれるだけでいいと思っていた。
だからいくらでも待つつもりでいた。
楓がその気になるまで、いいと言うまで。
それなのに、最近の楓はやけに近い。
からかいのつもりで、でも一縷の期待を込めて「キスしていい?」と聞いても「ダメ」と言う。
そのくせこの間みたいに、自分は外で頬にキスをしたりしてくる。
もうしてもいいってこと?頬だから良かった?俺からじゃないから良かった?
そんなことをぐるぐると考えて、中学生か、と息を吐く。
普通に自分自身も恋愛経験はあるし、楓だって割と彼氏が途切れなかったタイプなのだから、お互いにそういうことは初めてではない、はず。
なのに、こんな時も、兄妹が邪魔をする。
——それに、俺も、手放しでそう思えるわけではない。
俺は俺で、楓に手を出せない、理由がある。
テーブルの上に置きっぱなしになっていた楓のスマホが、短く振動した。
なんとなくそれをぼんやり見つめていると、フローリングの床を、お風呂上がりの少し湿った足の裏が、ペタペタと吸い付くような足音が近づいてきた。
「あったあったー」
俺がソファにいることを気づいていないように、するりとやってきた楓が、少し前屈みになってスマホを手に取った。
それは、いい。
問題は、その、格好だ。
「っえ、ぎゃーっ!!怜ちゃんなんでいるの!!」
楓が俺に気づいて、大声を出した。
部屋着の大きめのスウェットの、上だけを着ている。
下を履いていないので、屈んだ姿勢から、もろに下着が見えている。
俺は目を逸らすことなくそこを見ていて、きっとそれは伝わった。
「ゴッ、ごめんなさいっ!」
慌ててスウェットを、隠すように引っ張り下ろしながら逃げようとする楓の腕を、思わず取った。さっきまであんなことを考えていたせいだ。
「ひゃっ」
「何その格好?」
楓が呆気なく俺の腕の中に収まり、ついでに下着が見えないようにブランケットを雑に投げてやる。
ブランケットを必死に下腹部と足にかけながら、楓が焦った様子で言った。
「あの、ズボンを、部屋に忘れて、」
「なんでそれでパンツ見せてきたの?」
「みっ、見た!?」
「あの角度は見えるでしょ。むしろ見て欲しいのかと思った」
楓を後ろから抱きしめる形に収めているのも、俺なりの配慮ではあるのだが、それはそれで、風呂上がりの香りがより強調されて、困る。
「違うのっ、怜ちゃんの部屋の電気が付いてたから、こっちにいないと思って、だからまぁ、暑かったしっ、ちょっとならいいかと思って、スマ、スマホ取りにきたのっ」
そりゃあ、そんなことだろうと予測くらいつくよ。
でも大事なのは、そこではない。
「はぁ…」
「ごめ、あの、本当に、お見苦しいものを、あの…」
すっぽりと俺の腕の中に納まった楓が、機嫌を伺うようにチラチラと振り返って俺の顔を確認する。
つい溢れた俺のため息一つで、こんなにもビクビクとする楓に、どう手を出せって言うんだ。
「信頼してくれて何よりだけどさ、まぁ俺もさ、一応男なんだよね」
「は、はい」
「知らないよ?俺になにされても」
「は、い」
「…まぁいいや、とにかく自分の言動には気をつけること」
「はい…」
なんで俺は、好きな女の子の下着を見た後に、こんな話をしている?
そう思うとおかしくなって、ふっと笑みが溢れた。
楓といると、予想がつかないことだらけで、コロコロと変わる表情が面白くて、かわいくて、いつも最後にはどうしようもなく笑ってしまう。
「…れ、怜ちゃんは、……、私と、……キス…したい?」
楓が恥ずかしそうに、小さい声でそう言った。
思わずソファの背もたれに置いていた腕が、ずり落ちる。
「…え?」
「いや、あの、ごめん、この間、私が勢いでしちゃった時とか、固まってた、感じしたし…いつも冗談っぽく、聞いてくるし…なに、されてもって、言うから…」
別に、俺は、いくらでも待てる。
ただ俺にも、限界は、一応あって。
あの時の一回だけで、足りるはずは、到底なくて。
「…したいけど、普通に」
「で、ですよね…」
目の前の華奢な肩が、ぴくりと動いた。
楓が拒むのは、心の準備ができないのは、ずっと兄としてしか見てないからだと思っていた。
いきなり男になった兄と、唇を重ねるのは抵抗があるのかもしれないと思ったし、切り替えが難しいだろうと思っていた。
それに、俺自身が、怖かったのもあるから。
「…あの、私ね、」
「ストップ」
楓が何かを言おうとした。
直感的に、聞かない方がいい気がした。
「…なにぃ〜?」
「楓、今自分がどんな格好してるか分かってる?それ最後まで言っても大丈夫なこと?」
勇気を持って言おうとしたのになんで止めるの。そんな気持ちが現れたような、への字の口をしたって、さっき言動には気をつけてって、俺、言ったでしょ。
楓がハッとしたようにブランケットを引き上げた。
雑にまとめられた髪の毛先から、一滴だけぽつりと滴り落ちて、スウェットの襟元に小さな濃いシミを作った。
後ろから見える耳たぶが赤いのは、風呂のせいか、俺のせいか。
まだ湿気と熱を感じるその白い首筋に、かぶりつきたいと思う衝動を抑えるのに、俺は必死なのに。
「…とりあえず、もうパンツは見せないで貰えると助かる。そのブランケット巻いて、まず部屋戻って」
「はい、ご、ごめんなさい」
腕の中に引き入れたのは俺なのにね。
素直に謝って、言った通りに慌ててリビングを出ていく楓から、思わず目を逸らした。
「……」
楓が何を言おうとしたのか、分かるけどって言ったら、それは俺が、兄だってことなのかな。
でも、兄がこんな気持ちを持ってもいいのかな。
楓のスリッパの音がパタパタと遠くで聞こえて、しばらくして洗面所からドライヤーのくぐもった機械音が響いてきた。
それを耳にしながら、懸命に仕事のことを、考えた。



