ダブルデートは、楓と桃香の土曜休みが奇跡的に被っていた日があったので、すぐに実現することになった。
「やっほー、晴れてよかったねー、室内だけど!」
「おはようございますー!」
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
桃香と楓で決めた場所は、豊洲にある没入型のデジタルアートの体験施設で、十時過ぎに集合した。
そつなくよそ行きの顔で挨拶をする怜に対して、桃香の彼氏の竜一は、緊張した様子だった。
百八十センチ後半はあるだろうという身長で、長い前髪が目元をほとんど隠していて表情が見えづらい。
「あ、あの、柳生《やぎゅう》 竜一《りゅういち》です。桃ちゃんの一つ下の、二十四歳です」
「こんにちは!ていうか、えっ、竜さん年下だったんですね!」
「そうだよーん、見えないっしょ」
「初めまして、蓮見怜です、いつも楓がお世話になっています」
怜の言葉に、竜一は「初めまして」と頭を下げた。
楓よりも背の低い桃香に合わせてか、猫背が少し目立つ。
事前に買っておいたチケットで入場すると、暗くて怜にしがみつきたくなった。
目の前では桃香と竜一が腕を組んでいて、その姿を見て楓が同じように、怜の腕に手を絡めた。
目があった怜がふっと笑って、また逸らした。
「わー二回目だけどいいねー」
「本当ですね!」
膝下まで白っぽい水に浸かるエリアでは、はしゃぐ女子たちに置いていかれるように、男二人が入り口でパンツを捲るのに苦戦していた。
それを見ながら、楓は桃香に気になってたことを聞く。
「どうやってお二人は付き合ったんですか?出会いは?」
「ん?私の地元がね、北海道なんだけど、家が近所で元々幼馴染なの」
「え、そうなんですか!じゃあ長いんですか?」
水面が、歩くたびに大きく波紋を描いた。
「竜くんのところは男三人兄弟で、一番年下なんだけど。ママが娘が欲しかったからって、すっごい昔から良くしてくれてて」
————高校二年生の時に、高校一年生になった竜くんが告白してくれたの。
私もずっと好きだったから嬉しかった。
パティシエになりたくて、製菓学校を卒業して、地元のケーキ屋さんで働いたんだけどめちゃくちゃブラックで病んじゃってね、働き始めて九ヶ月くらいかな。
私は負けず嫌いだから辞めたくなくて悔しくて、でも朝が来ると起き上がれない。
竜くんは高卒で働いてて、心配してくれてたんだけど、ある日、なんかテレビ見てたら涙が出てきちゃって。
そしたら「辞めよう、桃ちゃんが泣くのなんて見たくない」って言ってくれたんだ。
それで踏ん切りがついてやめて、田舎だったからさ、再就職とかも噂とか広がっててね、そういう心の病気とかにもあんまり理解がなかったから。
だから二人で、いっそのこと上京しようってなったの。
俺は資格持ちだから、どこでも働けるからって。
で就職先探して、今の会社に中途で入ったんだよね————
「知らなかったです…」
「ま、あんまり詳しく言うことないもんねー」
桃香がケロリと言った。
水面を揺らした波が、何重にも重なって上から降ってくる光を歪ませていく。
膝下を撫でていくぬるい水流が、一歩進むたびにパシャパシャと小さな飛沫を上げて、白く濁った水底を揺らす。
天井から投影された色鮮やかな光の輪が、波紋の形に合わせて生き物のように伸び縮みしていた。
追いついた竜一が、桃香のスカートの裾が水面につきそうになっていることに気づいて、何気なく持ち上げる。
なんか、すごい桃香さんのこと大事にしてるって感じがするんだよね。
「置いてくなよ男二人を」
「えへ、ごめん。竜さんと何か話したの?」
「仕事何してるんですかって。エレベーターの整備士なんだってね」
「そうなんだ!」
黒い水面に天井の光が映り込み、上下の境界が分からなくなるようだった。
パンツに水が跳ねないように慎重に歩く怜を見て、楓は言った。
「竜さんってね、桃香さんにベタ惚れなんだって」
「へぇ」
「なんでもやってあげたいって感じなんだって」
「ふうん」
興味があるのかないのか、あたりを見渡しながら楓の話に相槌を打つ怜の腕に、楓は巻きついた。
ちゃぽんと水が跳ねて、怜の足元にぱしゃっとかかった。
「あっ、こら」
「怜ちゃんもそうだよね」
「……最近、楓は随分余裕だよね」
怜は眉を顰めながらそう言った。
くっつくくらいなら私だって全然できるようになってきたし、なんならもっとくっついたってもう大丈夫。そんないつまでも子どもだと思わないでほしい。
「次のエリア行こー」
「はいはい」
鏡と無数の光の部屋では、桃香の手を引いていた竜一が、「せっかくなんだから私だけじゃなくて楓ちゃん怜ぴょんと絡みなさい」と怒られていた。
どうやら人見知りらしく、緊張して途端にオドオドする姿が、長身と鋭い目つきに似合わず面白かった。
「竜くんってね、資格いっぱい持ってんの」
「えっすごいですね!どんな?」
「でしょー、第二種電気工事士と…なんだっけ、低圧電気なんとか」
「低圧電気取扱業務特別教育。あとは第一種電気工事士、認定電気工事従事者、消防設備士甲種四類、危険物取扱者乙種四類とか…」
「全然わかんないかも…」
「私も。もう資格とるの趣味みたいなもんなんだって」
へぇ、と怜の感心する声が背後から聞こえた。
資格あるとやっぱりどこでも働けるのかな、お母さんも簿記二級持ってたしなぁ。
でもそれよりも、彼氏の資格や得意なことを自分のように嬉しそうに話す桃香が印象的だった。
そうか、怜ちゃんを褒めることは、彼氏の惚気になるんだ。
怜ちゃんが仕事ができること、私も誇っていいのかな。
恥ずかしそうな気まずそうな顔で、先に徐々に足を進める竜一の肩を叩きながら、桃香が何か声をかけていた。
小柄で華奢な桃香と、長身で細身の竜一が並ぶとその身長差が可愛らしい。
桃香のきゅるんとした丸い瞳が、竜一を嬉しそうに見上げている。
「…私も、外で怜ちゃんは仕事ができるんですよって言おう」
「やめて恥ずかしいから」
頭上から無数の光が降り注ぐ。鏡に映る光が何倍にも増えて、広さも、自分がどこまで来たのかも分からなくなる。
「なんでよ、いいじゃん桃香さんみたいに堂々と自慢したい」
「俺は別に資格とかじゃないし」
怜は嫌そうに眉を顰めつつも、口元には笑みを浮かべている。
ちょっとは絶対に嬉しいでしょ。そう思いながら、楓はその顔を見つめた。
床の鏡にそのきらめきがどこまでも深く反転していて、まるで光の空中をふわふわと歩いているような感覚を覚える。
桃香たちは先に行ってしまって姿が見えなくて、見上げても見下ろしても、光しか存在しない世界だった。
「……怜ちゃん怜ちゃん」
後ろを見ても人はいなくて、まるでこの神秘的な光の空間に、自分たちしかいなくなったみたいだったからだろうか。
「ん?」
怜がこちらを見た。
その瞳が優しくて、さっきの桃香の瞳と似たものを感じた。
だから、気づいたら、動いていた。
楓は怜の腕を咄嗟に引っ張った。
見上げた先にあった怜の顔が、ゆっくりと近くに降りてきた。
楓は、ちゅっ、と微かなリップ音を立てて、怜の頬に唇を寄せた。
唇を離した瞬間、後ろの方から人の話し声が聞こえて、楓は慌てて怜の腕を離した。
自分でも大胆なことをしたなと思って、恥ずかしさから足元の鏡を見ていた。
ふと自分の隣を見ると、足元のガラス床に、片手を頬に当てたまま動きを止めている怜が逆さまに映り込んでいた。楓は視線を上げた。
「…」
「……」
二人とも何も言わずに顔を見合わせた。
怜の顔は、困ったような、戸惑っているような、なんとも言えない顔だった。
や、やっぱり大胆だったかな、外だし、くっつきたいなと思ったけど、ちょっとなんかダメだったかな。
怜が微かにはぁ、と息を漏らして、今度は楓の腕を優しく引っ張った。
ふわっとバランスを崩した楓が怜の肩にぶつかりそうになったところで、怜が楓の耳元に囁いた。
「…そういうのは、誰もいない時に、家でやってくんない?」
光は規則正しく瞬きながら、青、紫、白へと静かに色を変えていく。
静寂の中で光だけがゆっくり呼吸していた。
怜が静かに「行くよ」と言って、楓の手を取った。
寒色の光の粒の中で、その先までつい想像してしまった、楓の頬だけが赤かった。



