残業して遅くなる、と連絡をしたら、「迎えに行く」と連絡がきた。
そう言えば、危ないから迎えに行ける時は行くと言ってくれていたんだったと思い出して、口元が緩んだ。
「楓ちゃん?まだ帰んないの?」
休憩室で楓が座ってスマホをいじっていると、エプロンを外しながら桃香と健太郎が入ってきた。
楓はスタジオの鍵を預かっていないので、責任者の健太郎が帰る前に出なければならない。
もう二人とも帰るのか、別の場所で待ってようかな。そんなことを考えながら楓が返事をする。
「あ、えっと…迎えに来てくれるって…あの…」
「怜ぴょんが!?あ、やべ健太郎さんいたんだった」
桃香が口を押さえて後ろに立っていた健太郎を見つめた。
健太郎には怜と付き合ったことを話していなかったのだが、変な邪推をする人でもないのでいいだろう。
「なに?僕が聞いちゃいけない話だった?」
「いえ、あの…前言ってた、血の繋がらない、同居してる…兄と、その…あの、付き合いまして…」
「そうなの?おめでとう、良かったね」
健太郎は穏やかに笑って言った。
引っ越しの時に、住所変更の書類上の手続きで健太郎には怜と同居することを話していた。
健太郎は「いいねぇ、みんな幸せになってね」と言って、そのまま奥のロッカーを開けて、白いシャツの上に着ていたエプロンをするりと脱いだ。
「ねぇねぇ健太郎さん、楓ちゃんの彼氏見たくないですか?」
「エッ」
「見たいねぇ、来るの?ここに?」
「迎えに来るんですって〜、お家中目黒ですよ?電車で一駅なのに、まーなんて過保護で愛されてるのかしら!」
「桃香さんっ」
ニヤニヤしながら荷物を仕舞う桃香に、楓は言った。
健太郎の前でその話をしていいと分かった途端、水を得た魚のように嬉しそうだ。
「だからまだ帰ってなかったんだね、外は寒いし、彼氏が来るまで休憩室にいていいよ?」
「いえっ、でも健太郎さんも帰らなきゃですし、すぐ近くのコンビニにいます!」
「そう?じゃあコンビニまでみんなで一緒に行こうか」
白シャツにエプロンと決まっているスタジオでは、それぞれが自前の白いシャツを着てきている。
その上にトレーナーやニット、コートを重ね着して帰るだけなので、帰り支度も早い。
楓が立ち上がると、桃香が腕を組んで「もう来る?もう来る?」と言った。
頻繁に連絡をしてくれるわけではないが、家を出ると言っていた時間からすると、きっともうすぐ着くはずだ。
「変なこと、言わないでくださいよ…」
「なに?私がいつ変なこと言った?」
「いつもじゃないですかっ!怜ちゃんとのこと内緒にするねって、こないだ言ってたの誰ですか!」
「だって健太郎さんは別じゃぁ〜ん」
重い扉を開けて外に出ると、昼間のスタジオの温もりとは対照的な、ツンと鼻の奥を突くような11月の冷たい夜気が肌を刺した。
健太郎が黙ってスタジオの鍵を閉めた。
二人の会話を聞いているのだろうが、入ってくることはない。
女性だらけの職場で、いい距離感でいてくれるからこそ人気があるのだろう。
「ねー、楓ちゃん。私にめっちゃいい考えがある」
「なんですか?」
「ダブルデートしよ?」
「えっ!」
エレベーターに乗り込むと、健太郎がボタンを押した。
ゆっくりと三階から下降していく。
「楽しそうじゃない?ダブルデートしてみたかったんだよねー」
「た、楽しそう…竜さんのこと気になってたんですよ、聞きたくて!」
「うちの竜くんね、すっごい可愛いから」
チーンと軽い電子音が響き、開いたガラス扉の向こうに、蛍光灯で白く照らされた無機質なエントランスが広がった。
ガラス越しに見える夜の街の喧騒の中に、見慣れたチャコールグレーのコートの背中がぽつんと佇んでいる。
「あ、楓ちゃん。彼氏さんじゃない?」
健太郎がくるりと振り返って、怜の方を手のひらで指した。
遠くでスマホを見ていた怜が、楓たちに気づいてぺこりと会釈した。
「ナマ怜ぴょんだ〜〜!」
「桃香さんっ」
怜がこちらにゆっくりと近寄り、対面した健太郎がにこりと笑って頭を下げた。
「こんばんは、責任者で楓ちゃんの上司の黒川です。遅くまで付き合わせてしまって申し訳ありません」
「こんばんは、あ…蓮見です。とんでもないです、いつもお世話になっております」
あ、きっと、兄って言おうとしたな、と楓は二人を見ながら思う。
「楓ちゃんは頑張り屋さんで、受講者さんからの評判もいいんですよ」
「そうなんですか、良かったです。これからもよろしくお願いします」
彼氏として来たのに、挨拶がすっかり保護者じゃないか?と思いながら聞いていると隣の桃香もそう思ったのか、「返しが普通に兄じゃない?」と楓に耳打ちをした。
「じゃあ僕は先に行くね、気をつけて」
健太郎がそう言って笑い、手を振りながら帰っていった。
手を振り返す楓の隣では、桃香は楓の腕を組んだまま同じように手を振り返していた。
「こんばんは!高梨桃香です!楓ちゃんの三年上の二十五歳です!」
「こんばんは、いつもお話伺ってます。楓と仲良くしてくれてありがとうございます」
「あの、ダブルデートしませんか?」
「え?」
桃香のいきなりの言葉に、怜が思わず聞き返す。
助け舟を出した方がいいのかなと思いつつも、桃香と怜の会話を聞いてみたくて、その様子を黙って見つめる。
「私も彼氏と同棲してて、私の彼氏と、楓ちゃんと、怜ぴょん」
「れいぴょん…」
「ね!楓ちゃんも乗り気だよね!」
「うっ、うん!行きたい!桃香さんの彼氏さんの話気になってたの!楽しそうだし!」
組まれたままの腕をぐいっと引かれて会話に参加させられ、戸惑いながらも怜の顔を見ながら言った。
「怜ぴょん」にショックを受けたような怜が、笑いを貼りつけたような顔をしている。
「いいけど…その、桃香さんの彼氏さんはいいの?」
「うちの竜くんはなんでもオッケーなんで大丈夫です!楓ちゃんの言うことならなんでもオッケーな怜ぴょんと同じジャンル〜〜」
「あの…れいぴょんって…」
桃香は「まずは日にちだよねー」と言いながらスマホのカレンダーアプリを開いていて、怜が戸惑った顔で取り残されているのが面白い。
「怜ぴょんは土日休みですよね?」
「…はい…」
「んー竜くんもシフトだからなー、ちょっと楓ちゃん、また日にちはメッセで決めよー!」
「はーい」
すでに頭の中が他に向いているらしい桃香が、「じゃあ、また!明日ねー!」と言って手を振りながら駅の方に去っていった。
楓が手を振る隣で、怜は呆然と会釈をしている。
「ぶはっ」
「…」
「れ、怜ちゃんの顔、面白かった…っ」
隣を見上げると、複雑そうな戸惑っているような困っているような。
今まで見たことのない顔をしている怜に、楓は思わず吹き出して笑う。
「楓のコミュ力って改めてすごいわ…」
「えー桃香さん面白いよ、楽しいしお姉ちゃんみたい」
「いや悪い人じゃないのは分かるけど、怜ぴょんって何?楓がなんか言ったの?」
「怜ちゃんって呼び名は私だけで、お兄ちゃんって呼ぶとバレるからって言ってたよ」
「ふうん…にしても…ぴょんって歳じゃないけど、俺…」
「ぶはっ」
思い出してまた笑い出す楓を肘で軽く小突いた後、怜が楓の手を取った。
繋がれた手を怜のコートのポケットに入れると、裏地の滑らかなサテンの生地が少しだけ冷たかった。
「ダブルデート、嫌?」
「別にいいけど…俺あんまり社交的じゃないから空気大丈夫かな…」
「どこ行きたい?」
「俺の希望が通るの?女子二人で決めたらいいんじゃない」
「まぁ俺はなんでもいいよ」と言いながら、ポケットの中で手をぎゅっと握られた。
十一月半ばの夜はもう風が冷たくて、マフラーをそろそろ出さないといけないかな、と思いながら歩く。
「ふ、ふふっ、それにしても、さっきの怜ちゃんの、かお…っ」
「笑いすぎなんだけど」
怜が呆れたようにそう言って、ぐいっと腕を引いた。
身体がぶつかって、肩が重なるようにくっついた。
思わず怜を見上げると、しばらくじっと楓を見た後、ふっと優しく口角を上げた。
「な、なに…」
「いや?楓の顔、見ようかなって」
「…なにそれ…化粧も崩れてるからやめてよ…」
大通りから一本外れた道に曲がると、急に歩道がなくなって道が狭くなる。
それでも車通りはチラホラあり、十九時台の駅近くの道は、人通りもある。
「化粧って、楓のこと小六から知ってるのに」
「その時とは違うじゃんっ」
「変わんないよ、ずっとかわいいから大丈夫」
適当なこと言って、と言い返そうとして怜の顔を見上げた。
身体の半分がぴったりとくっついた距離で、思ったより顔が近くて、喉の奥まで出かかった言葉が消えていった。
「…どうしたの」
「……な、なにも…」
近くて、びっくりした。
付き合っているのにこんなことを言うのは、おかしいんだろうか。
そう思って、その言葉も言えなかった。
人通りがポツポツあって助かった、家じゃなくて良かった。
「楓」
「…なに…」
怜がふっと笑って名前を呼んだ。
楓が少しだけ距離を取ろうとするも、繋がれた腕が許してくれなかった。
「キスしていい?」
「ダッ、なに、外で、何言ってんの!!」
囁くように、楓の耳元で落とされた言葉に、思わず動揺する。
怜はそのまま楓を柔らかく見下ろした。
その間も足は前に進んでいて、たまに車が通り過ぎ、怜の奥で人とすれ違う。
「だめ?」
「っ、だ、だめです!!」
楓が勢いよくそう返すと、怜は楽しそうに笑った。
遠くで走る車のエンジン音や、駅へ向かう人たちの足音が低く響く。
「だめかー」
そのカラリとした返事に、楓は思わず黙った。
揶揄われた、だけ?さっき怜ちゃんの顔を笑ったお返しってこと?
ばくばくとうるさい心臓に、無意識に手を当てる。
あの時の、キスのことは、あまり思い返したくはない。
だって、
「心の準備できたら教えてね」
怜が笑ってそう言った。
同時にぎゅ、とポケットの中で繋がれた指先が絡んで、ごつごつとした怜の指の骨を感じる。
だって、最近、くっつきたくて仕方がない。
怜の顔を見るたびに、何かをしてもらうたびに、一緒に過ごすたびに、その横顔を見つめてしまう。
その手が背中に回るのを、想像してしまう自分がいる。
怖い、どうなるか分からなくて、こんな自分がいることが。
楓はそっと怜の手を握り返した。
足元をカラカラと微かな音を立てながら、木の葉が転がっていった。



